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イチローの「ザ・スロー」が覆い隠したもの(その2)
(「その1」続き)   1            目次

 先ほど、日米の選手のプレーのちがいは、身体能力の差というより、文化的なものに根ざしているのではなかろうかと書いた。

 アメリカの内野手が見せるジャンピングスローや、崩れた体勢からのスローというのは、日本人にとって、能力的に「できない」のではなく、走者を間一髪アウトにする上で確かに効くにもかかわらず、「習得がそもそも目指されていない」ものなのではないか。

 器械体操のように、明らかに上半身、リストに強い筋力が必要であれば、日本人もそれを身につける鍛錬を日々行う。そして実際に、身につけられてしまう。
 同体格の、諸外国のスポーツマンたちに、パフォーマンスにおいてけっして劣りはしない。

 しかし、野球の内野手の場合は……。

 むかし、通りがかりに、とある学校で野球部が練習しているのをながめていたとき、こんな光景を見たことがある。

 指導している先生が、二塁上でジャンピングスローをした子どもを、「こら、かっこつけるんじゃねえ!」と、大声でとがめたのである。

 むろん、その子は実際にただ、「ああいうプレー、かっこいいなあ」という気持ちから、やってみたのかもしれない。
 しかし、上へよけるにせよ、横へかわすにせよ、その種の動き自体は、内野手がいずれ習得することが望ましいものであろう。

 ランナーと交錯しても、野手は足を塁に置いたまま投げ、ランナーのほうが猛スライディングを遠慮する、という折り合いにしたら、日本だけで通用するガラパゴス・ベースボールになってしまう。

 などと書きつつ、私も実はそのとき、からだをポンと浮かせて投げたその動きに、「見ばえ優先で、基本に外れたことをした」という感じを、ぱっと抱いたのであった――。

 テニスの錦織圭選手が、背の高い外国人選手に対抗する手段として、いわゆるエア・ケイ(ジャンプして高い位置で打つフォアハンド・ストローク)をやり始めたときも、周囲の人々の反応はほぼ、そんな打ち方はよせというものであったという。
 その「よせ」の声は、はたして合理的な理由だけから出たものであったか――。

 日本語の「地に足がついていない」という表現が、文字どおりの意味以外に、ダイレクトに「悪い」意味――しっかり、事が行えていないという――を持っているのはおもしろいことである。

 どうも私たちの心には、農耕民族らしいメンタリティといえるかもしれないが、大地に足をしっかり降ろさずになされる所作を、ただちに「体の使い方の基本に反している」と感じてしまうような回路が潜んでいるのではなかろうか。

 そんなことを思うのも、スポーツと目的こそ異なるが、やはり身体の動きをきわめんとしている様々な世界で、しばしば同様のことを感じるためなのである。

 私は、舞いやダンスといった身体表現の世界が好きなのだが、西洋と日本のそれを比べると、意識を向けている方角がまるで正反対だなという印象を受けることがある。

 たとえば、西洋舞踊の粋であるバレエは、踊り手がツマ先で立ちつづけるという驚くべきムリをしてまで、地から離れた高所へ「舞い」を持っていかんとする。
 あちらの人たちは足が長いから、もとよりずいぶん全体の動きが腰高だというのに――。

 あげくはそれでも足らず、男のダンサーがバレリーナを持ち上げ、いっそう宙高くで「華」をつくろうとする。
 いわば、常に天上を志向しているような舞踊だ(ひらひら、ふわふわした、美しい鳥を思わせるバレリーナの衣装からしてそうであるが)。

 これに比して、私たちの「日本舞踊」のありかたがどれほどちがっていることだろうか。

 そこでは跳んだりクルクル回ったりする動きではなく、どっしり安定的な「腰」をつくるためにきびしい鍛錬が重ねられ、上方よりは、むしろ「大地」のほうが常に意識されているように見える。
 衣装だって明らかに、跳ぶ/軽快に回るには、まったく適さないものだ。

 先ほど、「地に足がついている」という表現にふれたけれど、これに似た舞台由来の日本語に、「板につく」というのがある。やはり、「事が良好に、しっくり行っている」ことを表わす言葉である。

 しかし、これがバレエだったら、そんな床板にベッタリ密着するイメージは、カカトを落とさねば動作がままならぬ、ダンサーの未熟さ、身のおもさを表わす表現に感じとられるかもしれない。

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