武道・格闘の世界などを見ても、私はこれと同じような東西の差異を感じるのである。
むかし、「チョウのように舞い、ハチのように刺す」と自らを描写した、米ボクシング界のスーパースターがいた。
上半身を筋肉隆々にビルドアップし、ぴょんぴょん跳ねながら相手に打撃を加えていくボクサーの姿は、意識のありかをヘソ下、臍下丹田にすえ、体の下部を非常に重んじる東洋武術(そこでは上半身は「虚」にせよとさえ言われることがある)とは、やはりずいぶん異なっている。
軽快に二塁プレートをけり、腕力によるクイック・スローで打者を刺すメジャー野手のプレーもまた、まさしく「チョウのように舞い、ハチのように刺す」光景だといえる。
これに対し、ランナーが来ているのに、二塁プレートを踏んだまま球を投じる選手は、そんな場面さえ、「板につく」日本的な身のこなしを続けてしまっているのだといえよう。
アメリカの野球選手のプレーは、投げるにせよ打つにせよ、私たちから見ると、過度に上半身の力に頼りすぎているように映る。
しかし、あちらから見たら、私たちのからだの使い方は、同じようにマトモでないものに映っているだろう。
たまたまこっちに生まれたからといって、自分の感じ方をバサッと「人間の体の使い方の正解」と決めつけるのも、ごう慢な話だといえる。
実は私自身、いかに上半身の力を抜くか、いかに下半身主導で体を使うかといったトレーニングを長く続けたことがあり、正直にいえば、そのような体の使い方こそ正解であるという思いを持っている。
しかし、自分が別途、他の文化のなかにも生まれてみた上で、両方を公平に比較して評価しているわけではない。
こんなことを書くのも、やはり野球に関係した日米のちがいについて、近ごろひとつ「恐さ」を感じたことがあるためなのである。上の話に通じるところのある事柄なので、これもちょっと付け加えることにしたい。
「そんなのあたりまえだろ」の恐さ
かつて、日本のプロ球界のエース的存在だった松坂大輔が、独占交渉権と年俸総額(6年間)あわせて120億円以上という、とてつもない契約でメジャーへ移籍したとき、ピッチャーの「投げ込み」に関する日米の考え方の違いが大きな摩擦を生んだことがあった。
アメリカでは、ピッチャーの肩というのは、使い減りする一種の「消耗品」とみなされている。
筋トレなどによる上半身強化は、体形を見ても明らかなように盛んであるが、投げ込みの数は必要最小限にとどめるのがいいと考える。
チームは、大金を投じた選手を消耗させまいと、春のキャンプから、日々の投球数にきびしい制限を課した。
しかし、松坂は毎年、多量の投げ込みによって肩を作り上げることを習慣にしてきた投手である(西武時代の春のキャンプでは、1日300球以上も投げていたという)。そんな制限を課されては十分な準備をすることができないと反発した。
今までずっと、そうした練習方法で好成績をあげてきたのだから、本人が望むとおりの練習をさせればいいではないか。
練習が足りず良い成績が残せなければ、それこそ大金をムダにすることになる。投手の腕についてのアメリカの考え方は、過保護すぎるのではないか。
球数制限の報道を読んで、私はそんな感じを抱いていた。日本のメディアのトーンも、この厳しい制限におおむね否定的であった。
何せ私たちは、たいして休養日も挟まず、延長戦を一人で投げきったりする高校生たちの熱闘を、夏の風物詩としてずっと見ているのだ――。
ところが松坂投手は、ちょうど30歳を超えたころだったが、右ひじに違和感をおぼえ、シーズンが始まってまもなく故障者リスト入りした。
MRIによる検査を行った結果、ひじ靭帯が損傷していることが判明し、結局、修復手術を受けることになった。反対側の腕などから腱を移植する、いわゆる「トミー・ジョン手術」である。
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