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フレディのふしぎな回答(その2)
(その1続き)   1            目次

 ジム・ハットンの回顧本「フレディ・マーキュリーと私」は、実に丸々ひとつの章を使ってこの日本旅行の思い出を記している。彼自身、よほど楽しかったのであろう。

 あえて泊まった日本式旅館の、部屋付きの小さな木の風呂で、湯船にすぐ入ろうとしたジムにフレディが金切り声を上げ、「だめだ、入っちゃだめだ。日本人はそういうやり方はしない」「日本にいるんだから日本式にやらなきゃ」と講釈し、石鹸で身を洗い木桶で流してから一緒に湯に入ったというかわいらしい話は、私の知るフレディ来日エピソードのトップに位置している。

 本業の音楽のほうでも、フレディはクイーンとして日本語歌詞の曲を歌っただけでなく、ソロでも「ラ・ジャポネーズ(La Japonaise)」という曲を書き、いっそう長い日本語歌詞を歌っている。

 共演したオペラ界の大歌手、モンセラート・カバリエにまで日本語を憶えさせ(乗り気でなかった彼女を「ぜひ」と説き伏せたという)、デュエットしていることに驚く。

 「遠い国のあなたに魅せられて、あまりに美しい……」といった歌詞(訳でなく原詞)は、「けっこう汚れてるとこあります」と日本人の一員として照れるけれど、この曲はわが国への気持ちが最もストレートに伝わってくるフレディ遺産なので、ぜひ一度聞いてみていただきたい。

 彼のこうした日本志向のとっかかりが、ひょっとしたらくだんのアンケートの「問い→自らの回答」に一つありはしないかと、映画を観ていて思った次第なのである。


 もちろん、ただきっかけのみならず、フレディの感性と日本文化が実際にフィットしたことが、より本質的な原因としてあるのだろう。
 日本で特に大人気を得た海外スターが、そのことへの感謝から進んで、みな深く日本の文化へ踏み入るかといえば、そんなことはないのだ。

 映画「ボヘミアン・ラプソディ」が大ヒットし、さまざまなメディアがフレディに注目するなか、私は作家・岩下尚史がテレビで語っていたことが一つ本質をついているように思ったので、以下そのコメントをつづめて紹介したい。

「フレディ・マーキュリーのような傾向の方(映画でも描かれていた同性愛指向を意味している)で、日本文化にあこがれを抱く西洋人は、昔から数多くあり、一つのパターンといえるほどである。
 日本人でもあまりふり向かないような日本の美に、心を動かされる。

 西洋の美は男性的な美、均整のとれた美、完璧さの美である。
 これに対して日本の美には西洋的な均整がなく、むしろ何か欠けたところがある。あるいは余白がある。

 それは完全無欠ではない美であり、(上記のような人々は)そうした部分にひかれる。
 歴史的にも、和歌にせよ美術にせよ、日本の美は男と女の間のような人々が為政者の庇護のもとで担ってきた。

 あるいは古くは小泉八雲のように、心に「さびしさ」を抱えた人々がわが国の文化にひかれる。
 逆に、晴れ晴れとした、男っぼいマッチョな人は、日本文化にはひかれないだろう。」

 岩下氏自身、ここで書かれているような傾向をもつことは、テレビ等で自ら明言していることなので書きそえていいだろう。
 私はこれを聞きつつ、語り手自身がなぜ日本の古典文化に深くひかれたかを、同時に語っているように感じたのである。

フレディによる「リアル・ミー」の吐露

 数万、時には十数万の視線を一身に集めての、ステージ上の堂々たるふるまいを見ると、フレディはハート強靭な人物に映る。
 胸開きの衣装でしばしば見せたあの胸毛は、ひょっとすると皮膚でなく心臓から生えているのかと……。

 けれども、実際の彼の内面はそれとまるで違っていたということを、BBCが制作した番組「ザ・グレイト・プリテンダー」が照らし出している。
 この番組タイトルは、フレディが「これぞまさに自分のことだ」と感じてカバーしたの歌のタイトルからとられたものだ。

 「プリテンダー(pretender)」は日本語にしにくい単語だけれど、自らの本性と違う何かに見せかける人、ふりをする人といった意味合い。

 人見知りだからインタビューは嫌いと語るフレディの、貴重な(しゃべりの)肉声で構成したこの番組は、まさに上記の話に通じるフレディ・マーキュリーを描いている。

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