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 それは簡潔にいえば、この歌詞でフレディが殺したと言っている「一人の男」は、他の誰かではなく、(過去の)自分自身だというものである。

 同性愛へ踏み出すことにより、かつての自己を殺してしまったという、母への告白。
 ゾロアスター教徒ファルーク・バルサラを、(経典にそむく)同性愛へ踏み出すことで自分は殺した――そんなふうに表現してもいいかもしれない。

 「さようなら、皆さん。僕は行かなければならない」「あなたたちのもとを離れ、真実に向き合わなければならない」
 何から離れるのか、「真実」とはいったい何かといったことも、上の見方に立つなら意味不明どころかこの上なく明瞭になる。

 この曲がただ単に、「主人公が他者を殺し、そのせいで破滅する」という架空物語であったなら、そこに「生まれてこなければよかったのにと思うときがある」とか、「からだに常に痛みがある」といった、作り手自身の心情としか思えぬ生々しい言葉が加えられようか。

あたかも宗教裁判のような

 「ボヘミアン・ラプソディ」の中盤には、主人公が多くの裁判官に糾弾されているような場面が現れる。
 Bismillah(アラーの名のもとに)といった言葉が語られ、一般的な犯罪の裁きというより宗教裁判を連想せずにおれない。

 「お前を行かせはしない」「彼を行かせてやれ」「お前を行かせはしない」「僕を行かせて」――主人公を責める声と、擁護する声が交錯する。

 フレディが踏み出そうとする方向に対して、家族やその宗教コミュニティが心のなかで壁であった事情を知ると、母への告白や、周囲の人々への「グッドバイ」の言葉ののち、宗教的糾弾を思わせる中盤(行かせる/行かせない)へつづく展開がじつに腑に落ちるのである。

 そしてあの、曲の内容は「関係性についてだ」というフレディの短い言葉もまた……。

 そうしたことを考えていて、ふと頭をよぎったことがある。それは、フレディはそもそもなぜこの曲を「ボヘミアン・ラプソディ」と名づけたのだろうかということである。

 「ボヘミアン」は、むろんヨーロッパのボヘミアに由来した言葉だけれど、あちらでも日本でも、いまそうした元来の意味で使われることは少ない。
 1980年代に日本で「ボヘミアン」(葛城ユキ)という曲が大ヒットしたが、これもボヘミア自体とは無関係。

 「ボヘミアン」の意味を辞書に問えば、「芸術家や作家で習俗を無視した生活や行動をする人」「俗世間の掟に従わず放縦な生活をする人。芸術家などに見られる。」といった説明が書かれている。

 先ほどの話と、「ボヘミアン」のこうした意味をつきあわせるなら、フレディがこの語で「誰」を指していたのか、どうしたってある推測が生じてくる。

 「掟に従わず放縦な生活をする人」「習俗を無視した生活や行動をする人」――これはまさしく、自らの宗教戒律をやぶり、同性愛という当時社会的「逸脱」であった道を選んだ、フレディのありようだ。

 すなわち「ボヘミアン・ラプソディ」というタイトルは、ずばり「フレディ自身の狂詩曲」を意味しているように感じられるのである。

 もしそうであれば、これは気まぐれな思いつきのフレーズでなく、歌詞全体を実にあざやかに総括したタイトルといえよう。

語れる相手/語れない相手

 けれども、もしこの曲の歌詞が明確な意味をもつなら、なぜフレディはそれをバンドのメンバーにさえ語らなかったのか?

 私はこの事実が、「殺したと歌われているのは、古い自分のことだ」というティム・ライスの解釈を、むしろいっそう腑に落ちるものにすると考える。

 フレディは英国以前の生活をバンドメンバーに語りたがらなかったという話を、先ほど書いた。

 あるいは、そうした時期の友人がコンサート楽屋を訪ねてくると、冷淡どころでなく「知らないふり」で跳ね返した。
 「私たちとは一切関係を持ちたくないんだなってみんなはっきりわかったの」「過去は過去に葬ろうとしていたのね」――そんな証言が、先述の伝記に載っている。

 自身がパールシーに属すことも、何ら恥じる類のことではないのに、公表したがらなかった。

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