一貫してそんな姿勢であったフレディが、バンドのメンバーに、「この歌で殺したと言っているのは、昔の自分のことで……」などと、意味を説明するはずがあろうか。
そこにはパールシー独特の事情のみならず、自らの性的指向に関係する事柄も含まれている。
進んで説明するほうが、むしろおかしい。とりわけ、メディアに内容を解説するわけがない。
けれども、心を許した私生活のパートナーとなれば別であろう。
先ほどふれた、晩年のフレディの男性パートナー、ジム・ハットンは、インタビューを受けてティム・ライスの解釈を「正しい」と証言している。
さらにフレディがこのことを公にしなかった理由を、次のように語っている。
「家族のためにストレートであると見せかけ(charade)続ける必要があったからだ。私たちは何度もそのことについて話した。」
「charade(シャレード)」は「見せかける」「虚偽を演じる」といった意味の単語。
こんな点を特に書き添えたのは、オードリー・ヘップバーンの名画で私たち(といっても年配の人だけか)になじみ深い言葉であること、および「ああ、またしてもフレディにはこの種の単語(見せかけ)がまとわりつくのだ」と感じたためである。
言いたかったのか、言いたくなかったのか
説明するわけにいかぬ何かが、もし歌詞の背後にあるのだったら、最初からそのような歌詞を書かなければよいではないか――そんな疑問もわく。けれども……。
先述のように、フレディが同性愛者であることを各種メディアが報じたのちも、彼がそれを自ら家族に告げることは最後までなかった。
その他の場面では、男性パートナーを「恋人」として紹介することに全然ためらいがなかったそうであるのに。
家族との関係で、フレディにとってこれがいかに重い事柄だったかを物語っている。
「ボヘミアン・ラプソディ」は、母に語りかける形式をとっているだけでなく、歌じたい、現実世界の母や家族に向けられたものだったのではないだろうか。
どうしても直接語ることができなかったことを、同一文化の共有者には意味が推測できるような、ぼやっとした言葉づかいで語っている。
いわゆる「カミングアウト」へ踏み出す人は、事実をオープンにすることのためらいと、言ってすっきりしたい思いの両方を抱くというけれど、フレディもまた、「言えない」「言いたい」の間を揺れながら、こうした微妙な表現の歌詞を書いたのではないだろうか。
プリテンダー/シャレード/リアル・ミー
ボヘミアン・ラプソディは、「これは現実の人生なのか? それとも単なるファンタジーなのか?」という問いかけで始まる。
初めて聴いたときは、よくある言い回し(「胡蝶の夢」的な)としか感じなかったが、その後フレディに関して多くの情報が伝わってきたのち耳にすると、この人に何重にも覆いかぶさっていた現実と虚構の二重性を思い起こさずにおれない。
亡くなるまでずっと続けられた、上記のような家族に対する「プリテンド」。
あるいは、古い友人たちが「彼は過去を葬ろうとしていた」と嘆いた、姓も名も英国ふうに変えての「英国ロックスター」としての自己確立。
さらには「役者の演技みたいなもの」と自ら語った、マッチョで専制君主的なステージアクション。
ふだんのフレディは、初対面の人に眼を合わせられず下を向いてしまうというふうで、スーパースターになってもずっとそうだった――そんな証言が先述の伝記に記されている。
まさに、フレディが「これぞ私のことだ」と言ってカバーした歌、「ザ・グレイト・プリテンダー」そのものなのである。
そんなふうに過ごしているうち、現在の自分がどのくらい「リアル・ミー」で、どのくらいファンタジー上の自分なのか、はっきりしなくなってくる。
ボヘミアン・ラプソディの冒頭には、そんな心持が顔を出しているように感じられる。
もちろん、フレディという人を繊細で傷つきやすい人物とだけ見たら誤りであろう。ステージ上での、他を圧倒するオーラは天性のものだと思うし、しばしば見せることがあった陽気な言動は「プリテンド」のみではあるまい。
周囲の多くの人がフレディについて語るのを聞く/読むと、そのことで人物像が焦点を結ぶより、この人がカメレオンのように見えてきたりする。特級の才能に、ありがちなことだけれども。
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