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 彼の言葉を番組から少し紹介してみたい(日本語にすると消え去るニュアンスがあるので原語もそえる)。

「僕がやっていることは、大半が見せかけ(プリテンディング)なんだ。役者の演技みたいなもので、ステージに立ってマッチョな男やら何やらのふりをする。」
("Most of the stuff I do, it is pretending. It's like acting, you know, you go on stage and I pretend to be a macho man and all that.")

「ステージに出たら、人々を失望させないようふるまわねばならなかった。フレディ・マーキュリーなんだから。それが何を意味するのか僕は知らないけれど、彼はプレスがみんなに言っていることに応える必要があった。」
("When I went out, I had to sort of try and perform a little as well and, like, in not letting them down, cos Freddie Mercury - I don't know what it means - but he had to react in a certain way, what the press had told people.")

(「フレディ・マーキュリー」という名前を口にしたのち、「彼は」と他人目線で話す感覚。
 この言いかたに、私は「デジャブ」のごとく、ある日本の有名歌手を思い出した。藤圭子である。

 この人はフレディと反対方向のプリテンドというか、「薄幸の暗い女性」を演じることを求められ、メディアの前で笑うことを禁じられていた。
 その彼女が引退後、「藤圭子」という名に対し、「あれ」はもういないんだからと、実に突き放した言いかたをしたのである。

 芸名だから、本人には当然の感覚だろうが、「あの顔の人」=藤圭子であるこちらとしてはギョッとした。自分でないものを演じていた不快感も、はっきり伝わってくる言いかたであるし……。

 フレディもまた、上の発言の際、本来の自分(ファルーク・バルサラ)へ戻っていたのだろう。)


 BBC番組からの引用を続ける。

「ステージでの様子から、僕をリアルな人食い鬼や暴君のごとく仕立てあげているのはメディアだ。」「人々は本当の僕(リアル・ミー)を知らない。知ることになる人が誰かいるとは思えない。」
("It's the media, basically, that built me up being a real ogre and a tyrant on stage because of the way I come across (on stage)." "They don't really know the real me. I don't think anybody will.")

「自分をあらわにするほど、傷つく。僕はもう傷だらけだ。」
("The more I open up, the more I get hurt. Basically I’m just riddled with scars.")

「不幸な目に多く遭うほど、曲はより良くなっていく。」「僕は過去の不幸で食っているんだ。」
("I think the more mishaps I have, the better the songs are going to be." "I'm sort of living on past mishaps.")

 クイーンの曲にあっても、フレディは「見せかけ」を続ける苦しさを吐露している。たとえば”My Melancholy Blues”(僕の憂鬱ブルース)という曲。

「僕に期待しないでくれ。完璧にふるまい、あの輝く笑みをまとうことを。」
(Don't expect me to behave perfectly and wear that sunny smile.)

日本との、むしろきわめて遠い距離

 映画「ボヘミアン・ラプソディ」は、フレディの人種/容貌に関係した描写に加え、同性愛者としての苦悩を描いていた。

 日本人としての感覚で、私たちはこれを「社会の偏見が強い時代だったので、つらかったのだろう」くらいにとらえる。
 けれども、フレディに作用していたプレッシャーは、次のような理由で、おそらくそうした推測の十倍くらい大きなものだったと想像する。

 そもそも、フレディが生まれ、8歳まで両親と生活したザンジバルが、同性愛者を非常に嫌悪する土地であり、偏見/差別どころか、同性愛は後に公式に「違法」とされるに至ったそう。

 カミングアウトに勇気がいるといった度合いの問題ではないのだ。
 (実のところ英国内でも、スコットランドや北アイルランドでは、クイーンが9枚目のアルバム「フラッシュ・ゴードン」を出すころまで、同性愛は「違法」だったという。)

 そのような社会の常識感覚は、子供時代のフレディに染みこんだに違いないが、場所特有のことなら他所へ移ればすむ。
 けれども、自らの宗教となればそうはいかない。

 バルサラ家の宗教であるゾロアスター教の経典(「アヴェスター」)は、同性愛者を完全否定している。
 単なる禁止ではなく、同性愛者は「悪魔」と同一視されている。

 宗教意識が、おそらく世界一ふわっとしている私たち日本人――クリスマスを祝った一週間後に、神社にお参りし、お葬式となれば仏教式といった――がここで思い起こすべきは、中東の地における宗教の厳格さだ。
 信仰のためには命も投げ出すという感覚が、いまも人々に共有されている。

 インドも同様である。インドとパキスタンは、かつて英領インドとして一つの国だったけれど、ヒンズー教-イスラム教という宗教の違いから2国に分裂し、血を流す争いがずっと続いている。

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