ゾロアスター教徒は、最も多く存在するインド(その人口は13億人超)でも、6~7万人。少数ゆえ、その結束力は大宗教よりはるかに強く、華僑以上に緊密な助け合いをしているという。
宗教の経典は、言うまでもなく絶対的なものであり、経典が「悪魔」と呼ぶ同性愛者が家から出たとなれば、パールシー・コミュニティのなかで家族は立場を失うことになるだろう。
フレディが同性愛者であることは、元マネージャーがメディアに暴露するなど、生前すでに広く知れわたっていた。
にもかかわらず、母親のジャーがタイムズ紙に語ったところでは、フレディがそれを家族に話すことは最後までなかったという。
とても、面と向かって言える事柄でなかったのだ。
(なぜ日本人が日本人に対し、ゾロアスター教/パールシーのことをくわしく書いているのか――その目的は実のところ、かの名曲「ボヘミアン・ラプソディ」にあることを予め記しておきたい。)
加えてフレディにはもう一つ別のプレッシャーもかかっていた。それは、私たちもリアルに思い描きやすいことに、日本にあって皇室にかかっているそれと非常に似ている。
紀元前にルーツをもつゾロアスター教は、いわゆる「男系継承」の宗教である。女性は一代かぎりの教徒であり、誰か男性教徒と結婚しないかぎり、その子供は教徒として認められない。
日本で女性皇族が、みな一代かぎりで皇籍離脱しているのと同じだ。
有資格者が、一代ごとにおよそ半分へ減るこうした制約のもと、よく教徒がずっと維持されてきたものである(特に、あちこちの国に少数で暮らすようになってからの千年間)。
継承の可能性がある人々に、強い宗教的義務感が存在していたのではないか。
フレディの場合、兄弟姉妹は、妹が一人いるだけ。彼が子孫を残さないかぎり、綿々と続いてきたパールシー・バルサラ家はとだえる(妹が、養子に来てくれる教徒男性を見つければ別であるが)。
唯一の息子である彼の肩には、宗教的使命に近いプレッシャーがかかっていたのである。
フレディは英国で生活を始めたのち、今回の映画でも描かれていたメアリー・オースティンという女性と交際していた。
彼が同性愛という方向へはっきり踏み出したのは、先述のように1970年代前半のことだったと言われている。
これはクイーンの結成(1970年)から、「ボヘミアン・ラプソディ」の発表(1975年)頃までの時期だ。
二つの時期が重なっているのは、偶然だろうか? おそらく、そうではない。
「ボヘミアン」は、いったい誰を指していたか
「ボヘミアン・ラプソディ」は、「ロック史上最高の曲は?」といった投票で1位に輝くなど超有名曲でありつつ、歌詞が何を表現しようとしているのか、はっきりしない曲である。
フレディは、この曲の内容を「関係性についてだ(about relationships)」と語った以外、亡くなるまで説明しなかった。コーラスをつけてもらうメンバーにさえ、意味を話さなかった。
「ママ」という呼びかけで始まる、一人の男を殺してしまったという告白。
僕は人生をすべて投げ捨ててしまった。
ママを泣かせるつもりはなかった。
明日、僕が戻らなくても今まで通りやっていってほしい。何事もなかったように。
僕は行かなければならない。あなたたちのもとを離れ、真実に向き合わなければならない。
中盤のオペラティックなパートでも、「お前を行かせはしない」「彼を行かせてやれ」「お前を行かせはしない」「僕を行かせて」といったやりとりがくり返される。
主人公は何から去り、どこへ行こうとしているのだろう?
この曲は数かぎりなく聞いた/耳にしたから、歌詞はすべて頭に刻まれているけれど(レコード時代から日本語訳が付いていたと思う)、意味はわからない。
あたかも、推理小説をラスト近くまで読んで内容は頭に入ったが、謎解きがなくて放置されている感じ。
ところがフレディと親しかった英国の作詞家ティム・ライスが、10年ほど前、この歌詞について語っているのを読み、全体にスッと糸が通り、まさに推理小説を読了したように謎が解けた思いがした。
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