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フレディの回答はなぜ「日本」だったのか

 話をもどしたい。実のところ、この話のためにフレディの生い立ち等を書くことが必要だったのである。

 映画「ボヘミアン・ラプソディ」で、フレディが差別的な扱いを受ける場面などを観ていて、ふと頭をよぎったことがあった。

 それは、かの四十数年前のアンケート(古い話のようで、まさに映画が描いている当の時期である)の、「最も好きな国は?」という質問は、フレディをちょっと困惑させるものだったかもしれないということである。

 「あの人のことなら何でも知りたい」ファンがいるアイドルならともかく、一般人が「最も好きな~は何ですか?」といった質問をどっさり向けられるなんてことは、まずない。

 当時のフレディは、まだ週給20ポンドという薄給で生活していたころ(実のところ、初来日のときさえそうだった)。他者に「最も好きな国は?」なぞと尋ねられたのは、生まれて初めてだった可能性があると思う。

 この点は他のクイーン・メンバーだって同様であろうが、それでも彼らが「最も好きな国は?」という問いに母国「England」と答えることは、あっさり簡単だっただろう。
 日本人なら、「日本」と答えることに、別にためらいなどないように。

 けれども、フレディにあってはどうだろうか――と、彼の当時までの生活(アフリカ/インド/英国)について後に知った者としては思う。

 フレディが幼少期と青年期を過ごしたザンジバルは、アラブ/インド系住民(彼の同胞)の大量虐殺をへて、このとき新しい国(タンザニア)の一地方になっていた。

 1984年ごろのインタビューで、フレディは2度目のザンジバル生活自体を「無かったこと」にしている。何か、そうとう不快な(あるいは恐ろしい)体験があったのだろう。
 出生地ながら、よもや「最も好きな国」に当てはまるとは思えない。

 フレディはインドで10年ほど生活したが、先述のようにそこでの暮らしを好きでなかったと語っている。

 17歳のとき移住した英国も、出自や外見の違いにより当時は差別的な扱いを受けていた場所だ(後年、大スターになってからはそんなことはなかったと思うけれど)。

 「最も好きな国」→「日本」という、かの回答は、本音が別にありつつそう答えた「リップサービス」などでは、まったくなかったのかもしれない。

 思いがけずそんな素朴な質問をされ、「どこだろう?」とあらためて考えてみたとき、自分がそれまで生きてきた国のなかに、回答として挙げられる国が無かったのではないか。

 この時点で、フレディは日本について既に何か知識をもっていたのかもしれないが、「好きな国=日本」と答えた大きな理由は、やはり「日本からのアンケート」だったことだろう。
 他のメンバーの回答にも、日本向けを意識した記述が見られる。

 しかし、「自分の好きな国は?」と自らに問い、いま生活している地や出生地ではなく、たとえば日本なのだと明確に回答してみた後には、そのことでいっそう日本という国を意識するところはあったかもしれない。
 そして、直後に実際に訪れてみれば、「ビートルズのような扱いを受けた」熱狂的歓迎である。


 クイーンのメンバーはみな親日家であるが、なかでもその度合いが尋常でなかったのがフレディだった。
 来日(お忍びを含む)のたび、古美術店やデパートなどを訪れ、日本グッズを多量に買いこんでいたという。
 英国の自宅に、本格的な日本庭園までつくっている。

 先述の伝記もそのあたりにふれている。

「『フレディが典型的な観光客のような行動をとったのは、唯一日本でだけだった』と、後に秘書のピーター・フリーストーンが述べている。
 『日本はフレディを虜にしたけれども、ほかのどの国に行っても、ただ夜寝るためだけの場所にしか過ぎなかった』」

 ライブ・エイドでの圧倒的パフォーマンスで世界をうならせた翌年、かつエイズ陽性判明の前年という、フレディにとってひとつ最も幸福だったかもしれぬ時期(1986年)に、彼は日本旅行をしている。晩年の男性パートナー、ジム・ハットンと共に。

 この旅行でフレディが使ったお金は、なんと100万ポンド(当時のレートで約2億5千万円)を超えたという。

 1986年は日本のバブル景気が始まったとされる年で、来日客が物価の高さに目を丸くしていたころだが(私は当時、東京や大阪でそうした外国人の買い物につきあったことがある)、バブルならぬ中実・黄金球みたいな景気のフレディは、ぜんぜん気にしなかったことだろう。

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