死語の生(その2)
(その1続き)
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ここまではロメロのゾンビ映画の、社会メッセージ的な側面にばかり、集中的にライトを当てたところがある。
しかし、彼の映画はむろん、第一に、お客をゾッとさせようとするホラー映画なのだ。私も別に、「大きな社会的意義がある作品らしいぞ」という情報を聞き、観に行ったわけではない。
ロメロの映画は、品性を欠きひんしゅくを買うシーンを多々ふくむ、まごうかたなきB級映画でもある(それが、「2001年宇宙の旅」などの隣で、高い歴史的評価を受けていることはすごいが)。
それゆえ、彼の映画に関するシリアスな話は、以上で終えることにしたい。ここから、この文章の中身じたい、しだいにB級、C級化していくことになるだろう。
死後の存在だが、死語にするのは惜しい
ふたたび、この文の冒頭の「死語」という話にもどる。
ロメロが亡くなったという報道で「ゾンビ」という言葉を耳にし、なつかしさを感じるとともに、私がふと思ったのは、この言葉もあの「ウルトラC」同様、ある年齢以上の人にだけ、意味がきっちり通じる単語ではないかということだった。
もちろんゾンビというキャラクターは、のちにテレビゲームの世界でうまく活かされたし、これが登場する映画等はいまも多くあるようである。しかし、それらに接しているのは、もともとそうしたジャンルを好む人たちだ。
「スリラー」現象のときのように、若者(あるいは国民)のほとんどが、テレビの一般番組や街のスクリーン等で、ゾンビたちのダンスをちらり見て知っているといった状況ではない。
社会を大きく騒がせた「スリラー」現象も、もはや35年前の出来事となった。その後、映画のメインストリームで、この種の作品が大ヒットしたという話は聞かない。
(後年の追記:このトピックは2017年の暮れに書いたもので、翌2018年に、かのゾンビ映画「カメラを止めるな!」が日本で大ヒットしたことにより、状況は一変した。
しかし、それ以前は私がここで懸念(?)しているような状況であったことを、長年「ゾンビの流行り廃り」を注視してきた者として、そのまま書き残しておきたい。
「カメラを止めるな!」の超低予算と、社会をゆるがすその後の影響の対比は、ロメロ初作の不気味なよみがえりにも映る。)
「ゾンビ」はもともと、映画から生まれた言葉ではないし、かの「ウルトラC」ほど、意味不明な言葉にはなっていないだろう。
しかし、若い世代で、この単語を耳にしてすぐさま視覚的イメージが浮かぶ人は、少ないのではなかろうか。その事じたいの良し悪しは別として。
あとの話の都合もあるので、ここでちょっと、原初の映画を知る者として、ゾンビというキャラクターを視覚的に説明しておきたい。
ネットでよく使われる、全体で一つのハンコのようなものであるらしい、
人生オワタ \(^o^)/
という文字列がある。ゾンビというのは、いちど人生終わっていつつ、なお、こんなふうに手をかざして襲ってくるやつらなのだ。
コンプライアンス配慮が要るいま、できるだけ穏便にヴィジュアル・イメージを示すと、たとえばこのようになる。
彼らは人を食べようとして、こんなふうに口を開けて襲いかかってくるのである。
映画の宣伝ポスターに、多量のゾンビがエレベータ内へなだれこんでくる写真が使われていたが、まさに上の絵のような感じだったと思う。
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