視覚と聴覚からの刺激
たとえば、「ゾンビ企業」という言葉が生まれたころと思われる2002年の、ニューヨークタイムズの記事の「書きぶり」を引用してみる。
ダイエーを、ずばり「ゾンビ企業」と名指しているその記事は、冒頭で、東京の西葛西に当時あったダイエー・ショッピングセンターの光景を描写している(ここは3階建ての巨大店舗)。
店の3階のフロアが、家電や婦人服の売場になっている。しかし、お客さんがおらず、「ghostly(幽霊が出そう)に空っぽ」であるという文章。
映画「ゾンビ」を観た方はすぐわかると思うが、このヴィジュアル・イメージは、映画が舞台にしている、ひとけのないショッピングモール――ただしゴースト(ゾンビ)は歩いている――そのまんまなのだ。
先ほど、ロメロが大量消費文化を皮肉っていると書いた、あの映像である。
このヒット映画をむかし観た誰かが、「ダイエー」→「ショッピングセンターを展開している会社らしい」→「破綻状態だがずっと生かされている」といった情報を聞き、ある意味とてもナチュラルに、「ゾンビ」を連想したのだと想像される。
記事が直に、そう説明しているわけではないけれど、これほど行間がはっきり伝わってくる文章もめずらしい。
記事はさらに、ダイエー(Daiei)という社名は”Die-ay”と発音するのですよと、わざわざ読者にオトが伝わるように書いている。
英米人が、耳なじみのない「ダイ・エー」というサウンドを聞けば、それはもう、Die(死ぬ)という単語が反射的に頭をよぎるであろう。
「ゾンビ企業」という言葉は、ゼロからぱっと思いつかれたのではなく、異文化交流の偶然のいたずらにより、企業名がこのひらめきをアシストしたのではないだろうか。
これを読んでちょっと思ったのは、たとえば大丸、ダイソーといった名前の日本企業が、店舗をアメリカなどで開いたとき、そのままの名前だと売り上げにマイナスにならないのだろうかという心配である。
たとえば、私たちは「4」や「9」といった数字を、それじたい不吉な意味などないのに、オトが「死」や「苦」を連想させるというだけで、使うことを避けたりする。
もともと縁起なんていうのは、理性以前の、感覚的な悪印象にかかわっている。
仮にどこかの国に「シニンダー」という名の会社があって、日本にデパートを建てたとする。
私はそこに、めでたいグッズや食品を買いに行く気には何だかならないだろう。
英米人は実際、上記のように「ダイエー」という耳慣れぬ音に、「死ぬ」概念をぱっと思い浮かべている。まあ、その辺は皆さん、海外進出でまっさきに注意している事柄であろうが……。
ITへも侵入するゾンビ
ゾンビは上のように、わが国を足場にして、経済の分野へ侵入しただけではない。IT・コンピュータ界へも進出している。
たとえば、コンピュータ用語に、「ゾンビ・プロセス」という言葉がある。
あるプロセス(処理過程)が実際にはもう終了して(死んで)いるのだけれど、親プロセスのほうが終了処理を行っていない(生者あつかいしている)。
そんな状態を表すのに「ゾンビ」の概念が利用されているのだ。
ネットの世界では、たとえば「パルシング・ゾンビ」という言葉が使われている。
悪意のプログラムが、ネットを通じて他者のコンピュータをじわじわ攻撃するさまや、正常なコンピュータが、攻撃を受けて邪悪な存在に変わってしまう恐さ(あたかも人間のゾンビ化)から、こう名づけられたのではないかと想像する。
私は、「経済」「IT・コンピュータ」「安全保障」を、現代社会の3大重要領域のように感じている。
ゾンビは、初めは人間の安全保障だけに関係していたのだが、いつのまにか経済やITへも入りこんでしまったのだ。
バリケードを破壊して、行動範囲をじわじわ広げようとする性質を、生まれつき持っているのかもしれぬ。
経済界やIT界は、「お富さん」に満ちた世界なので、もともと親和性が高いことも考えられる。
ゾンビは、それじたいは社会に現れないでほしいが、その「概念」は、上のように社会のさまざまな領域で役立っている。
しかし、世の中にゾンビの理解者が少なくなれば(「意味」の理解者のことであって、対象に好意的でなくてもいい)、私たちはこの言葉を便利に利用することができなくなる。
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