彼らの延命
「ウルトラC」は、根が完全に断たれてしまった以上、死語になっていくしかないだろう。しかし、使い勝手がよく、短い代替語が見つからない言葉「ゾンビ」は、今後も生き残ってほしいものである。
それには元の存在が、ホラーファン以外の一般の人々に、かつてみたいに広く知られる必要がある。
あまりグロテスクでない、親子連れでも観に行けるような、ソフトなゾンビ映画を誰かつくらないものか。
たとえば、学園ドラマの、ごくふつうのストーリーのなかに、何となくゾンビが存在しているというのはどうだろう。
学校のクラスでよく、カメやウサギが飼われているのと同様に、ゾンビがひとり飼われている。
先生と生徒たちの、喜怒哀楽の交流が描かれるなか、教室の後ろにいるのがときどき映る、オブジェみたいな扱い。
「なぜソンビがクラスにいるか」といった、野暮な説明はいっさい無し。ただ、そこにいるのだ。
ときには、誰がゾンビの世話をするかで、子供たちがちょっともめたりする。
生き物係 ゾンビの世話が、生き物係の担当って、おかしいだろ。
木の箱みたいに、もう死んでる生物なんだから、整理整頓係がやれよ。
整理整頓係 口を開けて噛みつこうとしてる物の世話が、なんで私なのよ。動くものの整頓なんて変だわよ。
きっちり整頓しても、また動いちゃうじゃないの。
生き物係 じゃあ、保健係だ。あれほど全身、傷だらけのやつは学校にいないぞ。
ほら、見てみろ。あいつ手まねきをしてるよ。
保健係 生き物の傷じゃないんだから、むしろ修繕係でしょ。
あたしは、誰かがあれに噛まれたら動くわよ。
黒板係 君たち、役所のたらい回しのようなことは、よしたまえ。(他の係はともかく、少なくともボクには粉が飛んできそうにないから、立派なことを言おう)
修繕係 ゾンビの、なおしは、傷薬でやるの? 接着剤でやるの?(私があれを完全に修繕したら、クラスメイトがふえるのかな?)
先生 みんな、あれは世話や手当てをしなくても、ずっと元気だから大丈夫だよ。
生き物係といえば――。
このような話の流れで、いくらほめる話とはいえ書くのはどうかと思いつつも、「チャンスの女神に後ろ髪はない」という言葉もあることだし、機会をのがさず前髪をつかむことにする。
この欄で前々回、昭和の歌に比べて平成の歌は、サウンド的には高度でも歌詞がザンネンな場合が多い(そこに力を入れる気持ちがもともとない)という印象を書いた。
しかし、むろん例外はあるのであって、たとえば「いきものがかり」の曲などは、音や歌はもちろん詞の面でもクオリティが高いと思う。
彼らは30年くらい早く出現したとしても、確実にトップスターになっていただろう。新しさと、昭和の曲がもつ魅力を同居させている感じ。
老若みなが知る歌が減った平成の、たとえば紅白歌合戦にあって、広い世代にいちばん受けるタイプの存在だったのではないか。
ハーモニカの使用が、ロックやフォークの初期ミュージシャンを思い出させるところも、個人的にポイント高し。
いま活動停止しているが、再びよみがえってほしいものである(今回の話の流れで、そういう言い回しはやめなさい)。
そういえば彼らには、前髪を切りすぎて……という内容の歌があった。NHK番組のテーマ曲だった、"Happy Smile Again"という曲だ。
そんな状態なのに、前髪をつかむべきではなかったか。
しかし、チャンスは離すな、握りしめろという歌でもあった気がする。ならばつかんでいいだろう。
”Happy Smile Again”というのは、絵で表現すると、こういう(\(^o^)/アゲイン)感じだな。
(いいかげんよしなさい)
不二雄+不二夫のフジミ男
話をもどし、斬新なゾンビ映画の可能性を模索したい。
私はゾンビという存在の、ホラー的にとても効果的な設定は、彼らにやられると、味方の人間が敵に変わってしまう点だったと思う。
一緒に戦っていた人物が、次には同じ顔のまま、こちらに迫ってくるという変貌が恐い。チェスの戦いでなく、将棋に似ている。
人間がゾンビに噛みついても、味方にできない点は違うけれど(誰も試していないだけか?)。
死んだ人間が動き出すという点で、ゾンビのぶきみさは、フランケンシュタインの怪物に重なる。
また、噛みつく行為で、人間が怪物側へ転じてしまうさまは、バンパイア(吸血鬼)の物語に似ている。
ロメロのゾンビは、古典的なホラーの設定を二つ組み合わせたキャラクターともいえるだろう。
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