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死語の生(その3)
(その2続き)   1            目次

境界があいまいな日本の私

 さて、今回、ホラー映画にふれたついでに、もう一つぜひ書きたいと思ったことがある。ほかならぬ、日本に関する話だ。

 たとえば外国を訪れると、対比で、自分の国の特徴に初めて気づくということが一般にある。

 それと同じように、私は西洋の作家が「気味わるいもの」を描いている映画(ゾンビ、エイリアン、物体X等々)を観て、逆に、日本の創作者が生み出す「気味わるいもの」の特徴が意識されたというか、くっきりわかった気がしたのである。

 日本にも妖怪、怪物、死霊などが出てくる恐い話はたくさんある。しかし、西洋のそれらとは、本質的な違いがあるように思う。
 それをおおざっぱに言うなら次の通りである。

 西洋の映画に出てくる「恐い」「気味わるい」存在というのは、お客さんが感情移入する主人公とは、まさにバリケードの両側のように、きっぱり切り離された存在だ。

 あちらには元々、宗教的に「神」「悪魔」というくっきりした対立概念があるわけだが、ホラー映画の敵キャラクターは、いわば「悪魔」がお面だけいろいろに変えて登場しているような感じ。

 そうした存在をできるだけ気味わるく、あるいは憎々しく描いたのちに、正義の存在がそれを成敗する。
 ヒーローの背後には、やはりどの場合も「神」がひかえている印象を受ける。

 実際、「神様、わたしに力を!」といった言葉が物語中でしばしば口にされる。
 このような台詞を入れることで、観ている人たちの心が一つになるところがあるのかもしれない。

 ホラーや、悪意の宇宙人SFなどで、多くの場合そうだというより、西部劇の対決、刑事ものなどもふくめ、さまざまなドラマの根っこに同じ発想があることを感じる。

 直接的に宗教がそこへ影響しているというより、長い歴史のなかでそれが物語文化や社会全体へ染みこみ、基本的な発想に影響を与えているのではないだろうか。

 アメリカの大統領選などを見ていても、「最後の決闘」へ向けてじわじわ雰囲気が盛り上がり、クライマックスの一騎打ちでスパッと勝負がつくという、西部劇の展開そのものだ。
 さまざまな小政党がうごめく、すっきりしない状況は、感覚的に気持ちわるいのではないか。

 これに対し、同じく宗教文化を考えてみると、仏教にあって正義に対する「敵」というものは存在しない。
 あえて敵を問えば、「おのれの敵は自分自身だ」といった言葉でも返ってきそうな、「こちら」「あちら」の垣根がない世界である。

 その影響なのか、あるいは私たちの性質や、狩猟(対象への敵対)より農耕を主とする生活が、そうした世界観に元々合うのかわからないが、きっぱり二項対立的でない発想は、日本の物語世界にも明らかに反映されている。

 宮崎駿の映画「千と千尋の神隠し」が、今世紀の初めに、米アカデミー賞の長編アニメ映画賞に輝いた。

 アメリカ人の感想を見てみると、彼らは映画の途中で「こいつが悪者だな」と目星をつけつつ、エンディングに近づくにつれその辺がまるで混沌としていくさまに、作品をすっきり咀嚼できぬふしぎな印象を抱いたようである。
 逆に、そこが新鮮な魅力にも感じられたらしい。

 私たちは、良くも悪くも、さほどひっかかりはしない点である。「千と千尋」の前作、「もののけ姫」なども、そのあたりは同様であった。

日本人のツボ

 主人公と魑魅魍魎(ちみもうりょう)の垣根が、すごく低いだけではない。

 気味のわるいものを、敵側でなく、何と「こちら側」へすえさえする。
 私は日本でよくなされるそうした設定に、ひとつ作品が深い魅力をはなつ黄金ツボがあると感じている者である。

 美しき正義の味方が勝つ、スパッとした爽快感ではない。しかし、そのことでむしろ、話に深みが出たり、それが強く心に刻まれたりする。
 日本にもむろん、ストレートな勧善懲悪ものはあり価値をもつのだが、それとは別の種類のツボとして。

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