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 たとえば前にここで、「妖怪人間ベム」という、バトルものに属する昔のアニメの話を書いた。この作品では、見る子供が感情移入する対象がなんと「妖怪」なのである。

 しかも、「もののけ姫」からさえ遠いのであって、かわいい/かっこいい外観ではなく、異常に気味のわるい外観に変身して、人を救う側でたたかう。

 子供は、「こういうぶきみな存在に、自分は心情的に肩入れしていいのか」と、迷いや将来不安を抱きながらも、ハマる。

 また、こうした善悪すっきりせぬ設定――むしろベムたちのまわりの人間がしばしば悪者的に描かれる――の下で、主人公の、きわめて人間的な悲しみや苦しみが描かれたりするのだ。

 「妖怪人間ベム」は、平成になって実写テレビドラマとして復活していた。
 子供のころ、トラウマに近い形でこれが心に刻まれた誰かが、日テレのなかにいるんだろうなあと思ったものである。

 「ベム」はなんと、来年また新作が作られるというではないか。あの物語設定はやはり、日本人の心のツボにきっちりハマるのだ。
 「早く人間になりた」かった彼らには気の毒であるが、ベムたちは昭和、平成をこえ、次の年号でも妖怪の姿で活躍し続けることだろう。

 そういえば、私が「あれ、まあ」と思ったのは、先ほどの「怪物くん」にしても、この「妖怪人間ベム」にしても、平成につくられた実写版の主役を、なんとジャニーズの人気アイドルが演じていたことである。

 日本にあっては、怪物だろうが妖怪だろうが、いかに自然に「こっち側」であれるかを示していよう。

フハハハハハ……

 「ぶきみな正義の味方」というものに、私が生まれて初めておどろいたのは、「黄金バット」(←戦前に起源をもつヒーロー)だ。
 どこからか、マントを着たドクロ男がやってきて、ひたすら「フハハハハハ……」と笑いながら敵とたたかう。

 このような外観とふるまいの何かは、西洋だとヒーローに聖水をかけられ「ギャー」と溶けていく存在だが、私たちはこのドクロに、「♪地球の平和をたのんだぞ」(「黄金バットの歌」)なのだ。

 美少女が「助けて」と念じるたび、このような存在が笑いながらやってきて、いのちを救ってくれる。西洋人の創作的イマジネーションの、完全に外にある何かだろう。

 それを明確に示す、とてもおもしろい史実がある。

 黄金バットは上記のように、戦前にルーツをもつヒーローであるが、日本が戦争で負け、アメリカから進駐軍がやってきたとき、彼らは黄金バットを見て、なんと頭髪をもつふつうの人間の顔へ、わざわざ命令して変えさせたそうである。

 たぶん、そうとう生理的に「キモチワルッ」と思ったのだろう。
 しかし、不満だった日本人は、後にまたドクロ顔へもどしてしまう。気持ちがわるいところこそ、いいのだ。

 私がここで書きたいことの趣旨を、一つの史実が代弁してくれているような話である。

 進駐軍の気持ちもわからなくはない。彼らは、マントをパタパタさせて登場するヒーローの、日米の差(スーパーマン⇔黄金バット)に、がくぜんとしたにちがいない。

 アメリカ人の目には、黄金バットはそれこそ、ゾンビがマントを着たような主人公に見えたはずだ。ニホンジンのおかしな精神を、子育ての時点から正さなければいかんと、一種の正義感から思ったのかもしれぬ。

 仮に日本が逆に戦勝国で、アメリカへ進駐したとしても、アメコミのヒーローの顔を変えさせようとはしなかっただろうなあ。
 もっとも、あえて変えねばならぬ、気味わるい顔のヒーローが、そもそも見当たらないけども。

 余談であるが、アニメ「黄金バット」は、悪の首領「ナゾー」(すごいネーミング)にも、「ナゾーの歌」というキャラクター・ソングをしっかり作っている。
 彼を鼓舞するような、「ヘイヘイヘイヘイ、ナゾー」「オーオーオー」という男声コーラスのリフレインが印象的な曲。

 曲中のナゾーの、「出たな黄金バット、負けるものか!」という、人間ぽいセリフと、バットの「フハハハハハ……」というこわい高笑いを聞いていると、どうも反射的にバットを「悪の親玉」と感じてしまう。

 エイリアンやプレデターなんかにも、登場するときのキャラクター・ソングを用意したらどうだろう。
 円盤で飛んでくる、外観異様なナゾーと、ほぼ似たような存在なのだし。

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