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 だいたい、「仮面ライダー」生みの親の大ヒットメーカー、石ノ森章太郎ほど、日本人のこうしたツボをよくわかっている人はいないのだ。

 この漫画家は、仮面ライダーの次に「キカイダー」というヒーローを生み出した。

 その外観は、建てかけて半分でやめた建物みたいな雰囲気で、頭の中身が半分見えているというすごいものである。
 この造形は、率直にいって、とてもゾ〇ビに近い(ファンに配慮していちおう伏せ字にした)。

 進駐軍が来たとき、もしこのヒーローが存在していたなら、「ニホンジンオカシイゾ」と、これをふつうの丸い頭部へ変えさせたことはまちがいない。
 でもこの造形は、後にそちらの国で異常人気を博す、「スーパー戦隊シリーズ」の生みの親のしわざなんですよ!

 ここでは、男子向け番組の話ばかり続けているのだが、同じ遺伝子の共有者として、ニッポン女子にもそういう面がないはずはないのである。

 否定しようというなら、あの種々の「キモかわいい」グッズの売れまくりは何だ。
 単なる「かわいい」造形をこえる、深入りすることは心配だがでも独特の磁力が、そこに存在しているためだろう。

 先日のハロウィンでも、明らかに女子をターゲットにした、「大人のハロウィンは、キモかわ&コワかわなスイーツで盛り上がろう!」という宣伝を目にした。
 鬼太郎の目玉おやじみたいなアイスクリーム(?)とか、そういうやつ。
 ある意味、こうしたスイーツは典型的な「和」である。


 かつて石ノ森章太郎のアシスタントをしていた、ビッグな漫画家に、永井豪がいる。

 この多彩なクリエーターの、あっちの方角(「H」)とはちがう恐い名作漫画に、「デビルマン」というのがあった。
 これも、「本来、敵側の存在」をヒーロー・サイドに置いた、典型的な作品である。

 「デビルマン」のアニメ主題歌の、「♪正義のヒーロー、デビルマン」という歌詞は、西洋で翻訳したら仰天されると思う。

 前回の話のよしみで、また広辞苑を手に取ってみると、デビル=「悪魔。魔神。サタン。」と説明してある。
 すなわちこの歌詞は、「正義のヒーロー 悪魔」といったものなのだ。

 青い目には滅茶苦茶に映ると思うけれど、日本ではこのような設定は、矛盾的であっても――むしろ矛盾的だからこそ――ツボなのだ。

 この作品は、西洋文化から遠いのではなく、逆にそれをモロに借り、その善/悪を利用して、敵味方がどろどろした物語世界をつくっている。

平成へ引きつがれた彼我どろどろ

 優れたクリエーターは、時代が平成になっても、やはり自らの嗅覚でこの必殺ツボ(秘孔)を探りあて、深みのある作品をつくっているように見える。

 一例をあげれば、庵野秀明監督の代表作。私はあれ、同世代として、永井豪の「マジンガーZ」と「デビルマン」をうまく合わせたようなキャラクターに感じたのだ。

 「マジンガーZ」は、大きな人型ロボットに少年が乗るという黄金アイデアの、起点をなした作品である。
 「ヒーローとはいえ他者」が戦うのでなく、子供自身が体でバトルしている気持ちになる巧妙なしくみの発明。

 一方、「デビルマン」は、上記のようにキリスト教からいろいろな概念を借りつつ、戦っている敵・味方の出自が同じで、垣根が時にドロリ溶けてしまう、とても非西洋的な作品である。

 アニメはわかりやすい作りだったが、原作漫画は子供向けとはとても思えぬ難解さ(大人ならわかるというレベルですらない)をもち、物語が終わってもまるで解決されないナゾが残ってしまう。
 理性で詰めていったというより、一種のトランス状態のなか描かれたものではないかと想像する。

 その理解しがたさが逆に、深みある魅力になっているのだが、そうした意味でも庵野作品と通じたところがあると思う。

 いま現在、特級の人気をえているバトル系の作品も、恐ろしい敵だと思っていた存在が、やはりいろいろな「壁」を消して人間側とつながってしまう構造をもっている。

 これはわが民族の、混沌としたありかたへ心が自然に吸引される、民族的遺伝子のようなものではないだろうか。

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