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画期的な試み:福岡フェルメール(その2)
(「その1」続き)   1            目次

原画より価値ある複製画?

 先述のように今回の展示では、リ・クリエイト画の画集を売っていた(これはぜひ一般販売してほしいものである。電子書籍でもよいから)。そんなに高くない、ソフトカバーのA4冊子だ。

 それを買って、あとでページをめくりつつ、ふとこんなことを思った。
 「フェルメールの作品を集めた書が、家にいくつかあるけれど、かりに本の置き場がなくなり、どれか一冊しか残せないとしたら、自分はこれを残すかもしれない」。原画の画集でなく、色補正された絵のほうを……。

 このように書くと、リ・クリエイトされた絵を、画家が描いた絵の「正確な」再現だと、私が安易に決めつけているように見えるかもしれない。もちろん、そんなことはないのだ。

 よくこんな蛮行(?)ができたなあと思うのだが、残存するフェルメールの絵の大半から、絵の具をけずり取って調べた研究者があって、彼が使った顔料の成分は、おおかた明らかになっている。

 今回のリ・クリエイト作業は、「フェルメール・センター・デルフト」から作品データの提供を受けるなど、可能なかぎりの情報収集のもとで行ったという。

 とはいえ、どうにも知りえないことは多々あるのだから、画家が描いた当時の色彩は、いまや「神のみぞ知る」事柄である。
 それゆえ今回の絵も、「再現」「再生」でなく、「リ・クリエイト(再・創造)」と名づけられているのだろう。それは「真相」ではなく、可能性の一つにすぎない。

 しかし、にもかかわらず、今回のリ・クリエイト画を見ると、「画家の意図は、元来このような(これに近い)ものだったのではないか」と感じてしまう。

 たとえば先ほどふれた、「青」の色調。

 ラピスラズリという貴石を粉にした、きわめて高価な絵の具をこの画家が使ったのは、この貴石の色によほど魅了されたためだろう。
 この絵の具のせいで、彼は大借金をかかえたという説もある(お金持ちのパトロンがいて、大丈夫だったという説もあるが)。

 そんな、色の美しさも、金銭的重みも多大なブルーだというのに、そこへあえて黒の顔料を多量に混ぜこみ、「いまの原画」がそうであるような、黒や灰色と見まがう色合いに仕上げるだろうか?
 あのような、「いちおう青系には見える」程度の青でよければ、他の安い青顔料でも事足りたのではなかろうか?

 さらに、今回のリ・クリエイト画で、青が使われているところがちゃんと青色に見えてみると、それらの配置は綿密な計算を感じさすものであり、色を「重り」にした天秤みたいに、美しくバランスがとれている。
 そうした色配置をする一方で、肝心の色彩を、青だか黄だかわからないほど黒ずませるとは思えない。

 先ほどは、おもに青同士の関係に注目したのだったが、このあと青・赤・黄の三色が、あたかも「三つ皿天秤」(?)のように、みごとなバランスを作っている例を見ることにしたい。

 リ・クリエイト画を見たのちに、原画のほうの色合いを見ると、私はどうも、「これは画家自身が目にしたら、かなり悲しむ無残な姿なのではないか?」と感じてしまう。

 実際にも、彼のいくつかの絵は、とてつもなく悲惨な扱いを受けてきたことがわかっているのだが……。

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