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画期的な試み:福岡フェルメール(その1)
(2015/5/20)
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 いろいろ触発的だったので、感じたことを書き出すときりがなくなるのだが、あまり長くならない範囲で書いてみたい。
 これは最新科学の力で、過去へ遡ろうとしている試みだけれども、むしろ今後の可能性にいろいろ思いをはせてしまった。

 生物学者・福岡伸一が監修するフェルメール展、という、めずらしい催しが開かれている(「フェルメール 光の王国展」)。当初は東京(&ニューヨーク)だけだったが、後述のように、日本の他の地域へも広がりつつある。

 フェルメールは、17世紀オランダの画家だ。寡作で、現存する作品は40枚に満たない。しかし、一つ一つがたいへん魅力的なので熱い愛好者が多い。
 福岡さんは本業とは別に、大のフェルメール好きとして知られている。

 この画家の最もよく知られた作品は、この「真珠の耳飾りの少女」だ。おそらくほとんどの方が、見憶えがあることだろう。



時とともに色気を失う、人間と絵画の残念

 今回の催しは、ふつうの美術展ではない。実に科学者らしいアプローチによるフェルメール展で、その肝は「リ・クリエイト」(再・創造)という言葉で表されている。

 古い絵画の「絵の具」はしばしば、時間がたつと元の色を大きく失ってしまう。保存状態が悪い時期があったりすれば、なおさらだ。

 その絵に、どんな絵の具が使われているか――これは、当時の記録による場合も現代の科学分析による場合もあるのだろうが、知ることができる。

 たとえばフェルメールの場合、青色には、今もよく目にする青い貴石ラピスラズリから作った、顔料「ウルトラマリン」が使われているといったふうに。

 絵の具の成分がわかれば、退色しやすい/しにくいという性質もわかる。
 そうした推定にもとづいて、絵の色を復元したり、後年できたひびわれを除去したりして、フェルメールが描いたままの絵をできるだけ再現しようとしているのが今回の展示である。

 「制作当時はたぶんこのような色だった」という推定・再現じたいは、テレビの美術番組などでもちょくちょく見かけるものだ。

 今回の展示の画期的なところは、原画と同サイズのカンバスの上に、実際に絵の具を吹きつけて原画を再現し、額縁も元の絵と同様のものを付け、現存するフェルメールの絵37枚を、一つの会場に制作年順(推定)にずらり並べていることである。

 見覚えのある絵がみな鮮やかな色彩に変貌し、ずらり並んでいるさまを見ると、今回の「リ・クリエイト」は「再・創造」であるとともに、日本語化した「リクリエーション」のように、「生気を取り戻させる」行いでもあるのだなと感じずにはおれない。
 疲れて色を失っていた顔に、ぱっと血の気が宿ったごとくである。

 いや――それはただ、色が全体に鮮やかになったという変化ではないのだ。
 たとえば、テレビ画面にカラー映像を映しておき、画面の彩度を落として白黒絵へ近づける。絵画の色あせ方がそんなふうなら、残念さはそれが「ひどく生気を失う」くらいにとどまる。

 時とともに個々の絵の具が色を失うさまは、一様ではない。ある色は早く消え、ある色はさほど変化しない。
 すると、絵から青だけ、赤だけが消える――といったことが起きるだけでなく、たとえば黄色の成分が消えることにより、画家が「緑」に描いたところが「青」に変わってしまうこともあるという。

 緑だったものが青に変わっても問題がないのは、信号機くらいだ。逆に、そんな変化がいちばん起きてほしくない世界は何かと、思いめぐらしてみると、私は「絵画」が浮かぶ。

 色には「三属性」(明度、彩度、色相)なるものがある。明度は「白⇔黒」の度合い、彩度は「カラフル⇔白黒」の度合い、色相は、青か黄か赤かといった違いだ。

 絵の具の質感などを別にすると、「色」はこの三属性で決まってしまうわけだが、時の流れは、何ら審美眼などもたぬまま、「明度」や「彩度」ばかりでなく、「色相」まで勝手に大きくいじるのである。

 かつてナチス/ヒトラーが、自らが嫌う近代美術を集めた「退廃芸術展」というのをやったけれども、現代にあっての古典絵画の美術展は、実は「退色芸術展」なのだといえよう。

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