北のモナ・リザ
今回の展示で、しばしその前で立ち止まってしまった絵に、冒頭でふれたこの「真珠の耳飾りの少女」がある。
見慣れすぎるほど見慣れたこの絵について、いまさら何か考えることになるとは思いもしなかった。
フェルメールの絵は、絵じたいは美しいが、描かれている人物(特に、女性のほう)は美形でないことが多い。
「絵に描いたような美人」を、彼はあまり絵に描いていないのである。「牛乳を注ぐ女」のメイドなどは、そこが逆に、いい味になっているのだが。
そうしたなかで、この絵の少女は整った顔だちをした人物の一人だ。
この少女が美形なのは、フェルメールがここでは身近な誰か(家族など)をモデルに使わず、架空の人物を描いたためだという説もある。画家に対しては、いくぶん失礼な推測かもしれないけれど……。
(この絵にかぎらず、彼が描いた人物が、現実の誰かなのか、架空の存在なのかについては専門家の間でさまざまに論争がある)
この絵は、フェルメールの最も有名な作品であり、かの「モナ・リザ」がしばしば引き合いに出されるほど、見た人に忘れがたい印象を残す作品だ。
女性をアップで描いた絵であることに加え、微笑みをかすかにたたえているような、いないような、微妙な表情。それが見る者へ与える余韻。そのあたりが、「モナ・リザ」と結びつけられるようになった理由だといわれている。
「モナ・リザ」(南欧・イタリアで描かれた名画)に対し、この絵が「北のモナ・リザ」と呼ばれている――そう聞いたとき、私もひざを打った者だ。
しかし、私が「なるほど、二つは似ている」と感じた理由は、上記のような「表情」の共通性とは違っていた。
私にはどうも、上の少女の絵は、あんまり微笑みに見えないのである。「微」の字を、あと二つくらい足すなら、まあ同意できるけれども。
私はむしろ両者に共通しているのは、一見、よくある美人画のようで、彼女たちが「違和感」「ふつうでなさ」(微量の不気味さとさえ、いってもよい)を感じさす点であり、その原因のひとつは、二人が眉を欠いていることだと思う。顔だちは整っていつつ、すっぱり眉がない。
もし二人のどちらかが濃い眉毛をもっていたとしたら、二つの絵は、はたして互いに連想されるものになったかどうか。
眉無秀麗
「真珠の耳飾りの少女」は、人物の「瞳」に強く印象づけられる作品である。
しかし、この瞳の上に、たとえば下の絵(晩年の作品、「ヴァージナルの前に座る若い女」)のような、美しいが「ふつうの」眉毛が描かれていたら、見る人の意識は、これほど人物の目もとへ吸い寄せられないと思う。
神秘的な雰囲気も、かなり薄まってしまう(これは「モナ・リザ」にも言えることだ)。
余談ながら、「モナ・リザ」の眉(の無さ)については、この絵を現代のハイテクで拡大して調べた専門家が、左目の上に眉を描いた跡があることを発見し、眉は実際は描かれたが消されてしまったという見解を示している。
この消去は、モナ・リザの名画性(というか、絵としての強い磁力)を、むしろ上げているかもしれない。
逆に、フェルメールの作品群にあって、見るたび私がつい「この眉を消せばいいのに」と思ってしまうのは、晩年のこの絵である(「ギターを弾く女」)。
フェルメールの作品には、修復者など他者がかなり顔をいじってしまっているものがあるが、この眉にその可能性はないのだろうか。
漫画みたいな、太くて丸い眉毛(上の画像だとちょっと見にくいが)を除去したら、この絵はもう少し、フェルメールの作品のなかで地位を上げるのではないか。
逆に、ターバン少女の絵や、先ほどの「牛乳を注ぐ女」といった特級の名画(&人物に眉がない絵)に、この丸い眉毛が描かれていたら……。
「眉目秀麗」というほめ言葉があるけれども、人間の顔は、目だけあって眉がないほうが魅力的な場合もあるようだ。
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