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 もちろん、アンサーソング(ペインティング?)だの何だのというのは、今回の絵を見てふと想像したことにすぎない。数百年も前の人が意図したことなど、だれが確実性をもって言い当てられよう?

 しかし、これまで画集で絵を見たり、「いまの原画」を直に見たりした際には、みじんも頭をよぎらなかったようなことが、今回の展示や、そこで売られていたリ・クリエイト画の画集をながめるうち、次々にわきあがってきたのは事実である。

 この種の刺激やら、自分なりの気づきやら想像やらは、こうした催しへ足をはこぶ楽しみの中心に属するものだろう。

画期的な美術展

 福岡フェルメール展は、二つの意味で画期的だと思う。展示のなかみ(失われた色彩の復元など)と、美術展としての、もっと実際的な面で。

 この文章の内容は、おもに前者に関係しているのだが、後者の価値も、それに劣らず大きいように思われる。

 外国の美術館などにある名画を、保険などをかけて運んできて、数ヶ月展示するとなれば、多大な費用がかかる。貸出料じたい、おそらく相当な額だろう。
 必然的に、おおぜいの来場が見込める地域でしか、そんな催しは開けない。

 しかし、福岡さんも書いていたが、今回のような展示会なら、何といっても当のものは一種の「印刷物」なのだから、盗難や損傷の心配などなく、どこでも容易に展示できる。

 この展示は初め、東京(&ニューヨーク)だけでやっていたが、評判がよかったのだろう、終了後も、東京の別の場所でまた展示がはじまったほか、中京へも広がっている(「フェルメール 光の王国展 in NAGOYA」)。

 多所で同時に開けるのも、原画なき美術展の強みであり、実際に東京・名古屋の開催時期は重なっている。少なくとも物理的には、「世界百ヶ所同時開催」なんてことだって可能なわけだ。

 名古屋で開かれることになったのは、口コミで「あれはよかったよ」という声が広がり、当地から要望が出たためだろう。
 「ぜひうちの地域でも」と思う人は、主催者へ何らかの形で要望を出せば、小さめの街でも開催の可能性はあるのではなかろうか。主催者も、催しが日本中へ広がることは嬉しいであろうし。(後日のメモ

 ある画家の、残存するすべての作品を、原画サイズで、ひと所で見て比べられる――「リ・クリエイト」という付加価値を除いてさえ、これは実に貴重な体験である。

 福岡フェルメール展がもつ価値の「エッセンス」を考えると、私はこんな開催のさまさえ空想してしまう。

 この展示を見たい何人かの有志が、近くの公的施設か何かの部屋を、無料で借りる。開催元は、費用の面から、絵に額縁をつけることは略して、37枚の絵と、解説の紙などだけをクルッと巻いて、宅配便で現地へ送る。

 有志の人々は、部屋についたてを並べ、絵を貼る。そして、入場料数百円だとか、未成年は無料だとかで、しばらく展示する。
 自治体が文化行事の一環として催してもよいのではないか。日本は、フェルメールファンが多い国である。

 このような展示は、美術展らしいおごそかな雰囲気を欠いてはいる。
 しかし、これが、立派な美術館で開かれる原画展とくらべ、純粋な美術的体験として、ただちに劣ると決めつけられるだろうか。

 そこにはむろん、「自分は絵の現物をこの目で見たぞ」という、スタンプラリー的な充足感はないのである。

 しかし、それは、絵のヴィジュアルを純粋に楽しむこととは、ちがう価値だ。
 いいかえれば、ある絵が「実はニセ画だった」と判明したとたん、絵じたいは少しも変化していないのに、急に消えてしまうようなふしぎな価値である。

 逆に、ニセ画と知れても、絵の魅力は少しも変化しないという価値がもしあるなら、そちらが純粋にアートとしての価値ということになろう。

 原画はもちろん、コピー画にない「細部」をふくんでいる。 
 しかし、有名な絵の来日にありがちな、行列をつくって少しずつ前へ進み、柵とガラス板で強力ガードされた絵をかなり遠いところから見るという体験で、そうした細部が味わえるかといえば……。

 今回の展示は原画を含まないとはいえ、原寸大でフェルメールの作品すべてを一堂に会させ、展示するという、世界でここにしかない空間を生んでいる。原画では、ぜったいにありえないできごとだ。何しろ、いま行方不明になっている絵まで含まれているのだから。

 こうした、良い意味の「ニセ絵画」づくりの技術は進んでいて、絵にふれずに、その複製が作れる機械がすでに開発されているという(今回の展示はそれを使っているわけではないが)。

 現代は、お札(さつ)の精密な線や色彩すら、みごと再現してしまえるカラーコピー機が存在し、問題を生んでいるほどの時代だ。しかも、三次元プリンタなるものまで出現し、その実用性の高さから、性能がたいへんな速度で進化している。

 そう遠くない将来、絵の具の盛り上がりや質感などをふくめて、原画と「どっちが本物?」と問われても見分けられないような複製も、作成可能になることだろう。なにしろ古の絵画は、お札のように「透かし」なぞという難しいものをふくんでいないのだ。

 もちろん、そうした複製が実際に作られるか否かには、技術以外の要因もかかわってくるだろうが。

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