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 上の絵では、絵の下方がほとんど黒色になっているが、リ・クリエイト画では、下方の物体も大半がちゃんと色をもっている。
 特に、左下にある大きな布の「紺」と、右下のイスの「赤」がくっきりしており、人物の服の「黄」と、美しい三色トライアングルをつくっている。

 また、テーブルの下中央には、今の器具でいうとストーブを思わせる、4本くらい格子の入った物体が見えている。このあたりが、「フェルメールの画集を一冊だけ家に置くとしたら今回の本を」などと感じてしまうゆえんである。

 実は今回の絵を見るまで、「耳飾り」/「首飾り」の二つの絵は、私の頭のなかで互いにかなり遠いところに存在していた。
 いずれも華やかな絵だが、別種の華やかさであり、極端にいえば、好みのちがう二人の画家が描いた二枚の絵のように感じていた。

 「耳飾り」のほうは、非常にカラフルで、描かれているものがごく少ない、大胆なアップの絵である。
 一方、「首飾り」のほうは、光と闇の対比と、その中間でのこまかな陰影が印象的な絵だ。

 ところが、今回の展示で「首飾り」の絵を見たとたん、二つの真珠が、思いがけず一つに重なったのである。
 これらはいずれも、華やかな衣装をまとった娘と真珠を主役にし、そこに青・黄・赤を大きくトライアングル状に配置した、よく似た二枚の絵であったのだ。

 しかし、今回のリ・クリエイト画を見なければ、私はこれらの絵にそうした連絡を感じることなど、永遠になかったろう。



 この「首飾り」の絵を、ちょっと右に90度回転させてみる。すると。左下に「赤」、上に「青」、右側に「黄」という、「耳飾り」の絵とぴったり同じ色配置が現れる。

 色の場所の一致じたいは、むろん「たまたま」だ。しかし、三原色がこんなふうに大胆に配置されていることは、けっして「たまたま」ではない。
 フェルメールはカンバスの右下に、あの定番の青イスでなく「赤イス」を配することで、意図的に三色トライアングルを作っていよう。

 この絵を書籍で見ると、赤イスはかろうじて赤に見えるが、左下の濃紺はほぼ黒になっているものが多い。その逆に、濃紺の存在のほうは言われ、イスの赤は無いように説明されている書もある。
 もちろん、「いまの原画」の見え方が、実際にそのとおり(赤も濃紺も、かなり黒に近い)だからだろう。

 しかし、この画家が、三つの色をせっかく上記のように配しておきつつ、その色を、色がはっきりしないまでに黒化させるとは、ちょっと思えない。せっかくの工夫が、だいなしではないか。

 その意味で、私はリ・クリエイト画の色合いのほうに、ずっと納得を感じるのである。
 絵画「青衣の女」が、21世紀に入ったのちに、汚れ除去により美しい色をとり戻した例なども頭をよぎりつつ……。

神聖な俗物?

 この「首飾り」の絵には一つおもしろい点があって、見る専門家により絵の意味の解釈が、180度ちがっているのである。

 ある人はこの絵を神聖な場面ととらえ、聖母マリアがキリストの身ごもりを天使から告げられる、「受胎告知」を暗に表現していると見る。

 一方、別の人はこの絵を、人間の「虚栄心」を表現した絵であると見る。お金持ちの婦人が、真珠のネックレスや、毛皮のふちどり付きの服を身にまとい、鏡(左端に小さな鏡が描かれている)に自分の姿を写して、うっとりしている。
 神聖さとは正反対の、世俗性の極みである。

 一つの絵が、正反対の印象を与えるというのはおもしろいことだ。
 たしかに、絵の上方だけが黄金色に光っているさまは、宗教的な場面を表現したものにも見えるし、キンキラキンの成金趣味の描写にも見える。

 人によりさまざまな解釈が生じるのが、絵の鑑賞の楽しいところであり、正反対の解釈が出されることに、何の問題もない。

 ただ、知られている別の事実との関係で、これらの解釈には、少々腑に落ちないところがある。

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