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画期的な試み:福岡フェルメール(その4)
(「その3」続き)   1            目次

 何度も引用した、フェルメールの代表作中の代表作を、最後にもう一度だけ見ることにする。



 この頭部のかざりがユニークなのは、黄色い布を後ろに垂らしている点だけでなく、その布が、すそだけ、まるで汚れのようなランダムさで青色になっていることである(先述のように、リ・クリエイト画ではここの青もターバンと同じようにくっきりしている)。

 こんな布を、フェルメールが「たまたま」持っていたとは考えにくい。彼は、布をすそだけ青く着色したか、絵のなかでだけ、この部分を青に変えたのであろう。

 現実の物としては、この布はちょっと奇妙な物体だ。

 しかし、カンバス上の色として見ると、下部のこの青は、ターバンの青とのバランスという点でも、黄色との連系で弓みたいに「紅一点」を浮かび上がらせている点でも、ぜひあってほしい要素に映る。

 ここにいるのは、少なくとも色に関しては、世界のあるがままをカンバス上へ移すというより、自分の美感のままに色を構成しようとする、抽象画家的なマインドをもった人に思える。

 人物の絵を、90度回転させて見る――「真珠の首飾りの女」の話のところで、そんな言葉を書いた。
 実はこれは、たまたま横倒しにしておいた具象画を見たらとても魅力的な絵に見えたという、抽象絵画の始祖、カンディンスキーの逸話を念頭に書いたものである。

 フェルメールは抽象画家ではない。しかし、明らかにそうした方向の感性「も」持った人である。

 何百年かのちに、多くのすぐれた画家がそこへ吸引されていくような価値を、彼は先どりしている。「普遍性」とは、時代や場所を超越した何かだが、フェルメールの絵には明らかにそれがある。

 北斎の絵も同様である。
 この人の絵を抽象化するなどという暴挙をやったのも、彼の絵の普遍性を、抽象化することで逆に具体的にとり出したいと思ったためなのだ。
 「赤玉焦点」をもつ先ほどの三色画は、西洋の人にも魅力的に映るにちがいない。

 あそこで富士山の色をなぜ「赤」にしたかというと、実のところ、かの美しい大波と、ターバンのウルトラ「マリン」が、私の頭のなかでダブっていたためなのだ。
 最近、活火山化しつつあると言われる富士山だって、重ねられるのが美少女の唇なら、怒って噴火はすまい。

この世で最も美しい絵

 さて、いよいよ最後に、大作「デルフト眺望」である。

 もし、フェルメールの絵の、原画サイズの複製画を、一枚だけ身近な壁にかけられるとしたら、私は「デルフト眺望」をえらぶ。
 これは、何度見ても飽きない深淵と、大胆/緻密な魅力の完璧な共存をもった絵だ。

 すでに書いたように、この「デルフト眺望」も、見る者の目を巧みに引き寄せる印象的な「焦点」と、カンバス全体への三原色の配置をふくんでいる。
 後者を、町の風景画にもかかわらずふくんでしまうのが、オランダおよびフェルメールのすごいところだ。
 しかも、「デルフト眺望」にあっては、こうした魅力が実に多層的なのである。

 しかし、プルーストが「この世で最も美しい絵」と絶賛したこの絵は、「この世で最も」かどうかは置くとしても、一般に過小評価されているように思えてならない。

 その大きな理由の一つは、人物をアップで描いた「真珠の耳飾りの少女」などと対照的に、この絵は小さい絵で見ると、魅力がほとんど伝わってこないことではないか。原画サイズとはいわぬまでも、大きめの画集で見たい絵なのだ。

 さらにいえば、プルーストがこの絵から受けた刺激には、印刷物では鑑賞できない、絵の表面の立体的な感触も含まれていたのだろうと、彼の言葉を見ると思う。

 逆にいうと、精密な「三次元リ・クリエイト画」みたいなものができ、色が鮮明化した原画サイズの複製画を、身近なところで鑑賞できるようになったりすれば、プルーストのような衝撃を受ける人が続出するかもしれない。

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