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 以上のように、慎重に予防線を張っておいてから、話の都合上、下にこの絵を載せることにする。
 もし「話の都合」がなければ、こうした形では絶対に紹介したくない絵である。(可能な方は絵を拡大して下さい)



 建物が、絵の左半分は「赤」、右半分は「青」と「黄」と、フェルメールに「さあ、我らを描け!」と言っているような色をしていることが、見てとれるだろうか?

 こうした粗い画像だと、建物の細かな色彩が、どうもつぶれてしまう。リ・クリエイトされた絵では、右側の青・黄がとても鮮やかだ。

 上の絵で、黄色がこのような色をしているのは、むろんサイズの問題というより、いまの原画の状態である。
 リ・クリエイト画でこれが鮮明なのは、「黄の顔料がいちばん速く退色する」という、まさに現代の知見によっているのだろう。

 プルーストは、この絵の「小さな黄色い壁」を文章づくりの手本のようにとらえているのだが、彼は19世紀に生まれた人物なので、彼が見たこの絵の壁は、上の絵に比べ、実際に、より「黄色」だったことだろう。

空の風景画?

 最大級の賛辞を書くほど、プルーストが具体的にこの絵のどこに魅了されたのか、よくわからないことは残念である。

 ここでは、私自身がこの絵のどこに魅力を感じるかを、絵の「細部」の魅力のことは100%省略しつつ、少し書くことにしたい(といっても、絵が絵なので、数行で終えるわけにはとてもいかないのだが)。

 もう一度、絵を見ることにする。



 絵の、なんと半分以上を、「空」が占めている。この絵の上半分だけ切りとったなら、そこに描かれている物は雲だけなのだ。

 建物群を描く絵であれば、ふつうはどこまでも広い大空など、そこそこの高さで切り、横長の絵にするだろう。そうしなかったところが、フェルメールの構成感覚の特異さであり、すごさである。

 この絵を最初に見たとき、横に連なるカラフルな建物がまずは目に入るとともに、かすかではあるが、不気味さのようなものを感じたことを覚えている。

 それは、絵の上部に広がっている黒い雲と、絵の下部に描かれている、黒白装束の二人の人物のためである(よく見ると、左の人物の服は黄や藍色も含んでいるのだが)。
 暗雲との対比のせいもあるけれど、彼女らが、この世の人ならぬ何かのように感じられたのである。

 このような第一印象は、あまり共感の得られないものだろうし(フェルメールだって聞いたら驚くだろう)、この絵をいま見て、そうした感覚が湧きはしない。
 しかし、そんな印象すら抱かせる何かを、この妙に縦に長い風景画がふくんでいることはたしかだ。
 この絵がもつ強い磁力の半分くらいは、横方向でなく縦方向の緊張関係がつくっていると思う。

 雲が上から、黒―白と二段に並べられているのに対し、人の服はそれを反転させたように、白―黒の二段がさねになっていて、それらがサンドイッチのように、赤・青・黄の建物群をはさんでいる。
 この小さな二人だけで、上空の雲とつりあえるような存在感をもっている。

 これは「町の絵」ではあるが、この絵を見て、下の二人の人物に自然に目が吸い寄せられない人はいないだろう。

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