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 絵画「真珠の耳飾りの少女」は、白の輝きや、赤・青・黄が何といっても目をとらえる絵である。
 しかし、画家がこの絵に最も多く塗った色といえば、背景の黒なのだ。この暗闇が、真珠や少女の瞳を光らせている。

 「デルフト眺望」にあっても、画家が上空高くに描いた「暗雲」こそが、絵全体を支えている。
 上方のこのダークな広がりが、下端の人物を浮かび上がらせ、建物の赤・青・黄や、中央の雲の白さをきわだたせている。

 この画家は、デルフトの建物のカラフルさをできるだけ映えさせるために、そこだけを絵にするのでなく全体を縦に長くし、逆の色的要素である「黒&白」を活かそうとしたのではないだろうか。

 先ほど「耳飾り」「首飾り」の二つの絵を、私が遠い存在に感じていたことを書いたが、「真珠の耳飾りの少女」と「デルフト眺望」こそは、フェルメールの絵のなかで、北極と南極ほど離れた印象がある絵である。

 片や、全作品のなかで最も「近景」の絵であり、人物以外、何も描かれていない。片や、最も「遠景」であり、町を描いた風景画である。

 しかし、絵全体への三原色の配置、暗い色の活かし方、鑑賞者の目をとらえるポイントの浮かび上がらせ方などを見ると、これらはどちらもまさに「ザ・フェルメール」であり、人物画/風景画、近景/遠景といったちがいは溶けてしまう。


ルーツ



 意味をちょっと忘れ、「色」に注目するために、この絵を右へくるり90度回してみる。
 すると上方に(元の絵の左側に)、「川」の字のごとく、黄・赤・青と、ここにも3現色のきれいな並びが存在していることに気づくだろう。

 (建物の「赤」が、この絵より実際どのくらい赤かったかは、いまのオランダの街並みの、あの鮮明な赤を見ればわかるといえるかもしれない。日本のお寺とちがい、あちらの建物のこの赤は、常時リ・クリエイトされ続けている)

 この色配置を、フェルメールが「わざと」やったと言いたいのではない。しかし、「町の実景なのだから、完全に偶然だ」とも、思わないのである。

 上記の「黄」の実体は、人が立っている手前の陸地である。たとえばフェルメールはここに座って、対岸の建物並びを描くことだってできた。建物を写生しようとするなら、絶好の場所に見える。しかし、この画家はそのような「四角」の切りとりを選ばなかった。

 ついでにいえば、どの建物を絵の四角に入れるかという、横の範囲もフェルメールの選択であり、このようにきっかり左半分に「赤屋根」が描かれ、右半分に「青屋根および黄壁」が描かれているのは、彼の美感による選択である。

 それと同じように、「四角」のなかに、下のこの陸地を含めることを、彼は自らの美感で選んだのだ。私はその大きな理由の一つは、むろん相手がこの画家だからだけれど、「色」ではないかと思う。
 黄色は先述のように退色がいちばん速い色であり、フェルメールがこの陸地に塗った色は、上の絵に比べ、より鮮明な「黄」だったはずである。

 また、雲ほど写生中にくるくる変化してしまうものはない。暗雲を描く一方で、絵のこの部分に対照的な青空を広がらせたのも、やはり画家自身である。
 (蛇足ながらこの絵では、青空が「マリン」ブルーを塗って表現され、その青が今度は海面に映っている!)

 結局、上の三色のうち、絵に入れられることが必然なのは、建物の「赤」だけなのだ。あの、唇の場合のように――。
 建物の三色以上に、左側の縦の三色並びは、画家のチョイスの産物といえるのである。


 もちろん、私自身が、フェルメールの絵をくり返し見るなかで、赤・青・黄の三色に敏感になりすぎている可能性もあろう。そんなふうに考えて、ここで思うことがある。

 それは、このような赤・青・黄の家々の町にフェルメールは生まれ、それをずっと見て育ったということである。
 「デルフト眺望」には、処女作的な作品群などよりはるかに、この画家の絵の原点が現れているのではなかろうか。

 そうした意味でも、「デルフト眺望」は、フェルメールの作品のなかでとびきり重要な絵に思えるのだ。

 一見、風景画を描いているように見せつつ、この画家は、自らの美意識をカンバス上で形にしている。
 しかし、絵画「デルフト眺望」には、そうした美的感覚をつくりあげた大もとが、実はダイレクトに描かれているのではあるまいか。

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