画期的な試み:福岡フェルメール(その3)
(「その2」続き)
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近年の絵画研究では、絵の「内部」をX線で調べることがしばしばなされる。画家が、初めその絵に描いたけれど、あとで上塗りして消してしまった部分を、映像として見ることができるのだ。
そうした調査により、この絵の赤イスの上には、当初、リュートが置かれていたことが判明している。
お金持ちの婦人の「虚栄心」、キンキラぶりを表現しようと考えつつ、その手前に庶民的な楽器、リュートを描きそえるというのは、何とも妙な話である。
あるいは、聖母マリアがキリストの受胎を知らされるというたいへんな場面に、他の日常画同様、あえて楽器を描き加えるというのも、やはり似つかわしくない話だ。
フェルメールはなぜ、この絵に当初、リュートを描きこんだのか。その理由として、最も自然ですっきり腑に落ちるのは、次のようなものではなかろうか。
先ほど、リュートや、ギターや、鍵盤楽器といった楽器と、一人の娘がペアで描かれている絵を見た。フェルメールは、この種の絵を実にたくさん描いている。
たとえばリュートは、先述の「窓辺でリュートを弾く女」以外に、「恋文」という作品にも登場している。
上の「真珠の首飾りの女」もまた、これらの作品と何ら変わりなく、もともと家庭の「ごくふつうの」シーンを描いた作品である――そんな見方だ。
実際、この絵が描かれたと推測されている時期に、上述のような日常ばなれしたテーマをもつ絵は、他に一つも描かれていない。
しかし、そう考えることを妨げているものが、下方がほぼ黒色で、上方だけが対照的に光り輝いている、この絵の外観である。
ところが、今回のリ・クリエイト画で、べったり黒かった部分の大半がきちんと色をもち、絵全体がクリアになると、この絵は「神秘的」あるいは「虚飾的」といった印象を、まったく与えないのだ。
他の絵と同じように、ふつうの家庭の「日常のひとコマ」を、カメラでパチリとやった瞬間のように見える。
もう一度、絵を見ることにする。
下の画像そのままでなく、これに比べ、右下のイスが赤色(エンジ色)、左下の大きな布が藍色で(どの範囲が「布」なのかも、この絵ではわからないと思うが)、全体がずっと明るい絵を、ちょっと想像していただきたい。
上の絵の人物が、「耳飾り」の少女の場合とちがって「大人」だと判断されたのは、いいかえれば、後世の人がこの絵のタイトルを(英題でいうと)「ガール」でなく「ウーマン」としたのは、真珠の首飾りと毛皮つきの服をまとった「子供」なんて妙であるとか、この絵は聖母を表しているのではないかといった、絵の「解釈」に基づいているだろう。
そうした解釈をちょっと忘れて、人物の顔だけを見ると、目もとにはあどけなさがあり、頭の横の赤いリボンも、金持ち婦人や、聖母マリアよりは、子どもがつけて嬉しいリボンに思える。
体形や、手の表情なども、成人というよりはむしろ……。
リ・クリエイト画に基づくと、この絵は私には、たとえばこんな場面に映る。
少女が、お母さんが外出した際に、こっそりお母さんの真珠のネックレスと、高価な服を身にまとう。そして壁の鏡のところへ行き、姿を映して楽しんでいる。数百年前も今も、女の子がやりそうな、そんな行いである。
仮にこのような絵だとすれば、「耳飾り」/「首飾り」という華やかな二枚の作品は、カンバス上に三原色を大きく配した、少女の「おしゃれシリーズ」みたいなものになろう。
まあ、黄色い服はフェルメール定番の服であって、この絵はもっとはるかに、特段の意味をもたない「ヴィジュアル志向」のものなのかもしれないけれども。
フェルメールの絵に、実際に今回の「リ・クリエイト」をほどこした木村文男氏(プリンティング・ディレクター)は、この画家が多用する赤・黄・藍(ウルトラマリン)を、よく現れる3色、「3現色」と呼んでいる。
これはフェルメールの絵の、一つキーワードになりうる言葉であろう。
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