もう一人の少女
こんな想像をした理由の一つは、実は、またしても今回のリ・クリエイト画なのである。
フェルメールには、ターバン少女と絵の構成がよく似た、「少女」という絵がある。この絵だ。
上に載せた絵は、実のところ、私がここで言いたいことを、むしろわからなくさせる。
まず、上の絵で銀色っぽく見えている少女の服は、リ・クリエイト画を見ると、明確に「青系」なのである。
そうした色になっているのは、服の部分から青色顔料が検出されたといった、フェルメールセンターからのデータによるのか、他の理由によるのか、私にはわからない。
大きな画集で見ると、この絵には服のヒジ近くに、青い顔料が、はがれ落ちず残ったような跡があり、そのあたりに関係したことなのか……。
さらに、少女の唇は、上の絵に比べて、もっとはっきりと「赤」である。頭から垂れた布の、黄色もまた、こんな目立たない色ではない。
上の絵に、三原色のトライアングルを見てとる人は、まずいないと思う。
しかし、リ・クリエイト画を見ると、上に書いた三つの部分は、はっきり赤・青・黄であり、相互の関係も、計算されたものに見える(面積が一つだけ大きいぶん、青を薄色にしてつりあわせている感じを受ける)。
しかも、その三色トライアングの真ん中で、「真珠の耳飾り」が光っている。
しつこくくり返すなら、この絵は、「黒を背景とし、赤・青・黄の三色をバランスよく配置した、真珠の耳飾りの少女の絵」なのである。
この絵が、リ・クリエイト画のように生き生き魅力的な見え方だったなら、誰かがこの絵をそっけなく、「少女」なんて名づけることはなかったかもしれない(英題はもうちょっと長いけれど)。
絵画「少女」は、ターバン少女の絵より数年あとに描かれたと、一般に推定されている。ただ、フェルメールの作品で、制作時期が判明しているものはごく少数であって、あとはみな、作風をもとにした推測である。
上の二つの絵の原画を、じかに横にならべて見る――そんな希有な機会が、かつてあったという。
逆にいえば、制作時期に関する上のような推測はみな、二つの作品を直接見比べることなしに、なされたものなのだ。
じかに比較する貴重な機会を得た、とある専門家は、二つの絵は通説とちがい、同じころに描かれた可能性があるのではないかと、感想を述べたそうである。
仮にこれが正しいとすると、(ターバン無しの)「少女」の絵は、ターバンの少女の絵より、先に描かれた可能性すら、あるのではないか。
画家というのはしばしば、あるアイデアで絵を何枚も描き、最後に「これぞ」という姿へ仕上げることをする。
個人展などで、そうした絵がならべて展示されていることがよくあるが、ねらいとする効果を絵ごとに高めている例はあっても、より地味な印象へ、効果をなまらせて行っているものなど見ない。
「真珠の耳飾りの少女」という、圧倒的な絵をすでに描いた画家が、その後あえて同じ趣向で、「少女」のようなタイプの絵を描くだろうか?
順序が逆なら、絵の進展として、とても自然に映るけれども。
時期の話はさておき――。
フェルメールはもともと、一つの設定の下でバリエーション作品を作るということをする人だ。左上に窓、光源があるという設定で、多様な絵を描くというふうに。
上の絵画「少女」もまた、今回のリ・クリエイト画で見ると、そうしたバリエーション・タイプの作品に見えてくる。あの「少女+真珠+三原色トライアングル」シリーズの一員であるように。
金持ち婦人の絵ともいわれる「首飾り」の絵と、この「少女」が連絡しようとは、よもや思わなかったのだが。
写実的であり、かつ写実的でない
フェルメールの絵を見た人が共通して受ける印象に、何となく「写真」を連想する、というものがあるだろう。
この画家の絵には、日常生活のある瞬間を、カメラでパチリと撮影したような表情がある。
彼は実際、カメラの先祖のような機械を活用したとも言われており、絵には、レンズ効果のようなものさえ描かれている。
福岡さんも、フェルメールの絵に科学者のような物の見方を感じたことが、彼の絵にひかれたきっかけであったという。
ただ、この画家のふしぎな魅力の一つは、それとまるで逆の面も併せもっていることである。
「色」に関しては、現実の色彩をあるがままにカンバス上へ移そうとする気持ちが、むしろまったく無かったように見える。
この画家の特徴の一つは、かのゴッホもこの点に驚きを感じたというが、使っている色がきわめて少ないことだ。本当に写真と見まがういわゆる「写実画」を描く画家たちとは、むしろ正反対である。
また、現実の生活空間に、ずばりの「三原色」というのはそう無いわけだけれども、彼はいかにも赤色である、黄色である、藍色であるという色を、多くの絵で共通して使っている。
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