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国際スター・ゴジラが足を向けて寝られない恩人(その1)
(2014/10/29)
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(下記の2014年公開のアメリカ版ゴジラ未見の方は、上の4をタッチして先へ進んでください。そこ(の4段落め)からがタイトルの示す内容のメインです。)

 ことし公開されたアメリカ版ゴジラは世界中でヒットし、早々に続編の制作が決定したようだ。日本での封切り「前」に、すでに世界61ヶ国で週末興収1位を獲得したという、派手なロードショー広告を目にした。

 日本の映画館に足を運んだのは、やはり年配層が最多だったようだが、一方でお客さんは10代まで広く分布してもいたという。

 しかし――なぜゴジラのお膝元、日本での映画封切りが、世界のなんと61ヶ国(以上)よりも、遅らされたのであろうか?

 このふしぎな世界上映スケジュールのことを聞いたとき、私の脳裏をよぎったのは、先代アメリカ版ゴジラ(1998年)が日本でめちゃくちゃに受けた刀傷のことである。

世紀末のイグアナの思い出

 監督の名をとってエメリッヒ版ゴジラと呼ばれている1998年のゴジラは、イグアナみたいな姿をしたモンスターが単体で大増殖したり、超高速で動き回ったりする(新幹線より速いという速度設定)、「これをゴジラと呼んでいるのは、ただ客寄せのためだけだろ!」という映画であった。

 その立ち姿、雰囲気は、ヒット映画シリーズ「エイリアン」のエイリアンにさえちょっと似ていた。

 ハリウッド映画のモンスターにありがちな、できるだけ気色わるい異物を造形し、お客さんをゾッとさせようという方向だ(日本の怪獣が皆どこか、かわいい着ぐるみキャラと連絡をもっているのとは対照的である)。

 別の言い方をすれば、この怪物が他の怪物と戦ったとしても、お客さんが「がんばれ、ゴジラ!」などと到底思い入れできないような存在であった。
 ぬめぬめ体液をたらす「エイリアン」と、戦いでタッグを組む気持ちになんかなれないのと同じだ。

 東宝はこの米版ゴジラによほど腹が立ったらしく、その後、このエセゴジラをわざわざ東宝ゴジラ映画に登場させ、徹底的にコケにしたようだ。

 そもそも契約段階から、東宝は米側から「東宝は今後、いっさいゴジラ映画を作らないこと」という理不尽な要求を突きつけられたそうで、あげくあのようなモンスターをゴジラ名で世界に配給されては、怒るのも当然といえよう。

 ゴジラの大好物はサカナなどという米版の設定は、日本人や、いろいろやりあった東宝をからかっているようにすら見えた。

 映画を国内配給した東宝さえそんなリアクションだったのだから、日本のゴジラファンの拒絶反応は推して知るべしである。

 エメリッヒ版ゴジラはそうしたファンの間で、「ジラ(Zilla)」という蔑称で呼ばれている。

 ゴジラの英語名”Godzilla”から、”God”を引き算した名前で、上記の東宝映画に由来している。これは実に的確な命名といえよう。

 1954年のゴジラ第一作に登場する、原初の「ゴジラ」は、人が生み出した放射能(水爆実験)のせいで海底から地上に現れ、しっぺ返しのように、私たちのすみかを壊して回る怪物である。

 ただの有害モンスターというより、「大自然」側の怒りというか、いくぶん神性も感じさせるような、いわばもうひとつの「怒りの大魔神」なのだ。

 この映画は、志村喬が演じる科学者の、「あのゴジラが最後の一匹とは思われない。もし水爆実験が続けて行われるとしたら、あのゴジラの同類がまた世界のどこかに現れてくるかもしれない」という言葉をへて、人々が帽子をとり、海に向かって敬礼するシーンで終わる。

 映画を最初に観たとき、私はこの敬礼はただ、海中で命を絶ち自らの発明品でゴジラを白骨化させた、芹沢という登場人物に向けられたものだと思った。

 しかし、映画を後に見返すと、この礼は、安住の地から人間の水爆実験によって引き出され、ついには殺されてしまった、主人公ゴジラへ向けられたものにも思えてきたのである。

 もともとこういう存在であった「ゴジラ」に、”Gojilla”でなく”Godzilla”という英語つづりをあてた、たぶんアメリカ人は、ゴジラ第一作の本質的なメッセージを、みごとにこの名前へ封入したといえよう。

 つづりに”God”を含んだこの怪物名は、英語圏にあって一種独特の雰囲気を生み、それが明らかに米国でのゴジラ人気に寄与した――そんなアメリカ人の分析をテレビ番組が紹介していた。

 そこから、そののち英米で、Godzillaをもじった英語名称があれこれ生まれるほどに……(たとえばいま、Mozilla Firefoxブラウザで、これを読んでいる方も多いのでは。これほど、ゴジラのモジリであるものはない)。

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