Site title 1

 英国人であるエドワーズ監督は、BBCが2005年に放送した、広島原爆投下のドキュメンタリー「HIROSHIMA」にもタッチしていた人で、今回のゴジラ映画に入れようとした反・核兵器メッセージの本気度は、とてつもないものだったのだが(もろに広島原爆の詳細の話を入れようとした)、そのあたりは後ほどふれることにする。

 渡辺謙が演じる科学者の、セリザワという名前も、ゴジラ第一作の芹沢博士の名前を踏襲している。
 怪物に対して絶対兵器を使うことに、彼が強い拒絶感を抱くあたりは、まさに芹沢博士DNAなのかもしれない。

 渡辺謙を準主演的に起用したこと自体、ニッポンのファンへの気遣いの一つであろう。
 しかし、これは単にゴジラの母国(?)の有名俳優を加えたという以上に、日本の怪獣映画がしばしば用いてきた、ある手法を使っていると言えるのである。

 西洋人の目で、日本の怪獣映画をごっそり観てきた前述の制作陣が、この点に意識的でないはずはない――そのあたりも後ほどふれることにする。

 こうした背景設定だけでなく、監督は、今回の映画の音楽を担当した、アカデミー賞ノミネートも数多い大御所アレクサンドル・デスプラに、伊福部昭のゴジラ音楽を聞くよう頼んだという。

 結果として、この映画の音楽は明らかに伊福部テイストを含んだものになっている。

 基本的な物語設定や、音楽さえこのようなのだから、肝心のゴジラも、ちゃんとゴジラしている。

 今回のゴジラを「デブ」と切り捨てるのはかわいそうである。

 東宝のゴジラシリーズの歴史をふり返れば、子供向けに雰囲気も体形も軽くなりすぎてしまったゴジラを、1984年の「30周年ゴジラ」(この映画もずいぶん話題になりヒットした)以降、あえて下ぶくれにふっくら肉を付け、重々しい存在へよみがえらすという流れがあった。

 ゴジラシリーズをすべて観ているエドワーズ監督が、そうした体形調整の作品ごとの試み、その効果を、感じとらないわけがない。

 あの30周年ゴジラもまた、今回の60周年ゴジラ同様、原点回帰が目指された作品であった。重々しくどっしりした怪獣にしようという志向が、今回もやはり強くあったと思うのだ。

 (余談だが、ゴジラというのは、元気に登場(1954年、1984年)したあと、20年ほど断続的に暴れると活動停止し(1975年と2004年)、ほぼ10年お休みしてから復活する(1984年と2014年)という、30年サイクルをもつ怪獣だということに、このまえ年表を見て気づいた)

 東宝ゴジラ史のみならず、米版ゴジラの歴史をふり返るなら、すぐ後ろには、トカゲのようなスリム体形をもち(実際、作中で何度も「トカゲ」と呼ばれていた)、超高速で走り回った「ジラ」の、無残な死骸が横たわっているのである。

 今回の米版ゴジラは明らかに、この「ジラ」の死骸をたんねんに検分し、映画成功へ向けてさまざまな点で反面教師にしていると思う。

 2014ゴジラの、過剰なまでのふくよかさ、重量感の背後には、軽快すぎた「ジラ」の亡霊がいると私はにらんでいる。

 (ついでながら、私がエメリッヒ版ゴジラに好感をもてなかった一因は、「ゴジラ」出現の原因が「フランスによる」核実験に変えられていて(これ、フランス人が見たら「なぜよ?」だと思うが、ジャン・レノはよく出演OKしたなあ。日本でドラえもん役をやるほうが、抵抗少なかったのでは)、「海洋で核実験をしたのはうちだけではありません」みたいな感じだったことである。

 いっそ舞台を完全にフランスにし、ゴジラがエッフェル塔にタックルしたりする映画にすれば、「パリのアメリカ人」みたいに、フランスへの憧憬で作られた映画にも見えようが――。タイトルは「パリのゴジラ」?

 もっとも、エメリッヒ監督はアメリカでなくドイツの人である。ゴジラという日本キャラの映画を、ドイツ人監督がハリウッドで作り、ゴジラ出現の原因がフランスの核実験だというのは、考えてみると複雑だ)

 2014ゴジラは、ゴジラ第一作(ゴジラ単独出演)を徹底的に踏まえるだけでなく、その後のゴジラシリーズにならってMUTOという敵怪獣を登場させている。

 また、口からはちゃんと火を吐く。まさにフルコース・ゴジラといえる。

 実はゴジラが吐くものは、日本では火ではなく「熱線」と呼ばれている。作品によってそれはビーム状であったり、ガス状であったりする。

 この熱線の実体が何なのか、私もよく知らないのだが、少なくともストーブの「遠赤外線」みたいな、人に喜ばしいものでないことは確かだ。

 背びれを光らせながら、放射能が多量に混じっていそうな得体の知れぬ熱線を吐くところに、ゴジラの出自を思わせる怖さがある。

 その意味で、今回ボワボワした「火」だったのはやや残念で、ただの火ならアメリカでは昔からハードロックバンドだって吐いていたのに、と思わないでもなかったが(あの、亀の怪獣ともかぶる)、エドワーズ監督は、映画の視覚的なリアリティを重んじたのかもしれない。

 実際、熱線などという妙なものを画面に加えたら興ざめになるほど、映像全体が非常にリアルなのであった。

 まあ、このような普通の人にはどうでもいい「違い」をことさら重大視し、それを公共ネットに書かずにおれないヤカラが、このサイト以外にも日本にはごまんといるのだから、ゴジラの作り手はたいへんだし、話はもどるが、先ほどのような邪推(日本のファンは世界興収の敵)が頭に浮かんでくるのである。

最初へ  前頁へ  1 2  4 5 6 次頁へ