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 こうした真正/神性ゴジラに照らすなら、Godを抜き去った”Zilla”という名前が、気色悪さ方向をひたすら追ったエメリッヒ版Godzillaに、どれほどぴったりであることか。

 エメリッヒ監督は実のところ、かなり気の毒である。彼はもともとゴジラに何の思い入れもなく、監督の依頼を何度も断ったのち、強引に引き受けさせられた人であった。

 「ゴジラ」と名づけさえしなければ、あれは別に非難されるようなデキの映画でもなかったのだ。

 しかし、日本のファン(&東宝)の激しい否定的リアクションも効いていようが、エメリッヒ版ゴジラは世界のファンのなかで黒歴史化している。

 そうした非難は本来、エメリッヒ監督より、ただゴジラのネームバリューを利用することしか考えなかった、当時の米側制作者に向けられるべきだろうが。

 さて、そのような米国ゴジラ史をへて、2014年がどういう時代かといえば、映画館へ行った人々が上映初日から感想をネットに書き込み、その映画に興味のある人々へ情報があっという間に伝わる時代である。時には、書き込みがすぐに翻訳され、海外へ達したりする。

 実際、今回の米版ゴジラの場合、予告編がネット上にアップされた直後に、「あのゴジラ、デブすぎるだろ!」「顔、ちがうだろ!」といった日本のファンの書き込みが、英訳され、アメリカのファンがそれに対してちょっと気弱に反論したのが、また和訳されていたりした。

 こうした翻訳サイトは、いま非常に活気がある。国際的なゴジラファンサイトも存在するし――。

 今回の米版ゴジラの配給者にしたら、映画館へ真っ先に足を運び、一般の人々に「あれ、おもしろかったよ!」と口コミしてくれることを期待するのは、世界中に存在している東宝のゴジラシリーズ・ファンであろう。

 彼らは、映画の爆発的ヒットの「導火線」となる人々だ。

 しかし、世界での封切り早々に、日本のファンが映画を見て、「あんなのゴジラじゃない」「具体的にこのようにヒドイ」「アメリカはもうゴジラを作るな」などという非難を多量にネットに書き込み、世界のゴジラファンがそんな反応を自国語訳したりしたら、この導火線をモロに湿らせることは必定だ。

 配給者が日本での米版ゴジラ封切りを、米国・欧州のみならず中東よりも、アフリカよりも、南米よりも、あるいは同じアジアの中国やタイやシンガポールよりもあと回しにしたのは、日本の原理主義的ゴジラファンの(すごくひどいかもしれない)ネット書き込みを、「興収の敵」「米版ゴジラにとってMUTO以上の敵」と考えたためだというのが、私の邪推なのである(ちなみにMUTOというのは、今回のゴジラの敵怪獣)。

 すでに世界中で映画がヒットした後であれば、逆に、「これこそグローバルスタンダード・ゴジラである。日本はガラパゴス・ゴジラ(ガジラ?)を捨て、これを受け入れよ」と、IT世界などと同じやり方で日本に圧力をかけることだってできるかもしれない。
 (ちなみに、ガラパゴスリクイグアナは、ゴジラにけっこう似ている。こんどの米版ゴジラには全然似ていない。ジラには、一番よく似ている)

ジラのわだちを踏まず

 いや、そのような邪推が頭をよぎったのも、今回の米版ゴジラが前回と180度違い、既存のゴジラファンに非常に気を遣っているというか、過去の東宝ゴジラへのリスペクトに満ち満ちているためなのだ。

 今回の制作会社、レジェンダリー・ピクチャーズのCEOがそもそも、子供のころからゴジラの大ファン。

 彼が監督に選んだギャレス・エドワーズも、これに抜擢される前から東宝ゴジラシリーズの全DVDを揃えていたほどの、筋金入りのゴジラファン(日本のファンでも、シリーズDVDをぜんぶ持っている人なんて滅多にいまい)。

 制作陣がそうした顔ぶれであることは、映画の物語設定に直に反映されている。

 今回の映画では、海底/地底に住むモンスターが地上へ出てきてしまう原因は、第二次大戦での核兵器使用やその後の核実験で、地表の放射能濃度が高まったためとされている。

 ゴジラ第一作のメッセージを、60年の時をへて、まさに受け継いだ設定だ。

 戦争での核兵器使用も影響して、厄災がもたらされる――このような物語設定は、私たち日本人には易くとも、アメリカ全土で映画を上映しようとしているハリウッド映画人には、そんなに易くはないだろう。

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