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 バー演じるスティーブが東京に来ているという設定だから、彼の周りには当然いろいろな日本人が出てくるのだが、いずれも日本語がたどたどしく、米国の日系の人だということがやはりすぐわかる。

 たどたどしさはむしろ、彼らの大半が明らかに演技のド素人であることに、多く因っていよう。

 日本語をしゃべりながら、中途で言葉に詰まったりしているのだが、「アメリカ人にはその辺、わからないからいいだろ」という感じで、そのまま映画になっている。

 しかしながら、このような相当な「やっつけ仕事」にすら、当時のアメリカ映画の地力は顔をのぞかせていて、バーが出ているシーンの背景(建物の内部など)を、元の日本映画の背景そっくりに作ったり、バーが日本の群衆のなかにいるシーンでは、アジア系エキストラをたくさん使ったり、画質をしっかり一致させたりしているので、そんなに違和感なく見ていけるのである。

 もともと本当にこのような「アメリカ映画」なのだと思って観た人さえ、なかにはいたかもしれない。あのような時期に米国でこの映画がヒットしてしまったという驚きの事実から、逆にそう疑うのだが。

 こんなとてつもない無理までして、日・米パッチワーク映像を作った理由の一つは、元のゴジラ第一作が、反・核兵器メッセージをあからさまに含んでいることであろう(放射能怪獣ゴジラが街を破壊しつくすさまも、核兵器の隠喩を感じずにはおれない)。

 ほんの11年前に原爆を「投下した側」の米国で上映するには、シーンをいろいろ削除せざるを得ず、追加撮影をして全体を再構成する必要があったと思われる。

 この「怪獣王ゴジラ」は日本でも封切られているのだが、ゴジラ第一作の大切なメッセージが削除されたうえ、不自然な日本語による「ド素人芝居」がごっそり加えられているのだから、この映画を良く評価する人が日本にいないのは当然といえる。

 ゴジラ第一作が1、2年前に既に上映されているニッポンで、このような「日本人の度肝を抜く」映画も、しっかり封切ったのはすごい。「あの時期に、よくああいう映画をアメリカで封切ったなあ」なんて、とても言えなくなる。

 しかし――このような改変映画など作られず、ゴジラ映画がハナからアメリカの地へ行かなかったほうが、はたして良かったのだろうか?

 元のメッセージが、まるで逆のメッセージへ変えられたりしているなら、そんなものは当然、無いほうがいいだろう。

 けれども、この変形は、主に特撮部分の迫力に魅了された米国映画人が、何とかこの映画を当時のアメリカでも上映できる形にしようとした結果、「これはアメリカでは無理だ」という部分を抜き、娯楽性中心に再構成したものなのである。この世に無いほうがいいような何かを作ったわけではない。

 いや、ここでゴジラ第一作と「怪獣王ゴジラ」、二つの映画を観たときの、私の正直な感想を書いたほうがいいだろう。

 第一作を、もちろん初上映よりずっと後年ながら見たとき、私はこの映画にはふつうなら共存しないような方向の価値が共存していて、この作品がつまらない日本人はまずいないだろうと思った。

 それはたとえば、娯楽性(円谷特撮に代表される)、非常にシリアスな社会性(水爆実験による日本人第三の被爆がこの映画制作の一因)、人間ドラマ志向(男女の三角関係などが描かれている)といったものである。

 後のゴジラ映画とちがい、男/男の子向けに偏った作りでもない。

 しかし、ここが「正直な感想」なのであるが、ああした非常に特殊な敗戦にも日本文化にも縁がない人々に、この映画の価値がよく通じたものだなあ(よく諸外国でヒットしたものだなあ)とも思ったのである。

 たしかに特撮部分はすごいのだが、後のゴジラ映画とはちがって、それはここでは映画の「主要要素の一つ」にすぎない。

 1954年のゴジラ第一作と、2014年米版ゴジラの別の共通点は、「ゴジラの姿を十分な長さ、見た気がしない」ことだと思う。

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