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時代と時代劇の斬りむすび(その1)
(2018/2/16)
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 先日復活した、武田鉄矢演じる「水戸黄門」を観て、「時代劇の新作を、いまの時代につくる意味は何だろう?」といったことを、あれこれ考えてしまった。
 もちろん「意味はない」でなく、「意味がある」という方向のことである。

 そのあたり、今回の番組の内容にふれつつも、より一般的な話として書いてみたい。

 今回の番組を観て、私はまた、いま時代劇の作り手があまり意識していない、しかし重要な視聴者ターゲットが、二つあるのではないかとも感じたのだ。

 それらをここでは、「緑」と「赤」と呼んでみる。
 不要な注釈かもしれないが、私はそうした視聴者として、けっして「タヌキ」や「キツネ」を考えているわけではない。


 今回の「水戸黄門」のいちばんの目玉である、武田鉄矢の黄門様。その姿は驚くほど、違和感がないというのが第一印象だった。

 里見浩太朗に比べたら、失礼ながら下品な光圀公へ変貌するのだろうと思っていたが(あえてくだけた演技をするだろう予想もふくめて)、そんなことはなく、品を感じた。あの衣装、すごく似合うタイプの人なのではないか。

 初代の、この役を14年間やった「ザ・水戸黄門」、東野英治郎よりも、はるかに上品に感じた(比較をすると、どうしても誰かに失礼になるな)。
 一方で、演技の軽妙さは言うまでもない。
 すでに初回序盤の画面で、武田黄門の頭上に、当たりランプがポッと点灯した気がした。

 しかし、初回を最後まで観たときは、逆に前途、悪い予感がした。

 こんどの水戸黄門は、人と人の関係の描きかたも、出演者じたいも、同じTBSの大ヒットドラマ「金八先生」色がきわめて濃い。
 作り手が、それこそ「ある視聴者ターゲット」を明確に意識したためだろう。

 お付きの助さんは黄門様に対し、そうとう失礼な口の利きかたをする。しかし、武田黄門はそれをさほど怒らない。
 「あっ、友達みたいな金八先生の感じ、そのまま水戸黄門へ持ち込むんだ」と思った。

 そして、このドラマの肝である、最後の印籠シーン。

 格さんが、「この紋所が目に入らぬか!」と、ふところから徳川の印籠を出す。
 黄門一行をただの町人と見ていた、悪代官などわるいやつらは、いっぺんに地位逆転して「へへえ」と土下座する。
 黄門様の顔が、そこで威厳ある「前副将軍」の顔へ、がらり変貌する。

 というのが今までの「水戸黄門」だったが、こんどの武田黄門は、土下座した人々を見回したのち、「おい、それ、すごく効いちゃったなあ。アハハ」みたいに、格さんに庶民的スマイルをするというリアクションだった。

 その表情がおもしろかったことはさておき、このような「水戸黄門+金八先生」の合体のさせ方は、まずいんじゃないかと思った。

 武田鉄矢は、三枚目的なキャラクターをよく演じる人だけれど、私はそれだから水戸黄門役にミスキャストだとは思わなかった。
 「必殺シリーズ」で、コメディアン・藤田まことが大成功したごとく、そうした点は、作中で表情を一変させるコントラストによって、むしろ新しい魅力にもなるからである。

 しかし、金八先生のような、いばらない庶民的なキャラクターを、徳川光圀役でもずっと続けるとなると、話はちがってくる。

 それは「水戸黄門」という、毎週かなり展開がパターン化しているドラマが、それでもなぜ40シーズン(部)以上も作られる、根強い人気をえたかという点にかかわっている。

 あるいはそれは、「必殺シリーズ」がやはり毎週お決まりの流れなのに、長寿の高視聴率シリーズになった理由とも、ほぼ同じだろうと思う。

バーチャルな清涼体験

 光景の類似性のせいで、思い出してしまったことだが、しばらく前、スーパーや衣料品店などで、お客が店員の失敗をネチネチとがめ、相手に土下座させる――さらにはその写真を撮る――という事件が次々に起きた。

 このできごとを店員側から見るなら、客のいいぶんが不条理でケンカしたくても、店を背負っている立場上、相手に逆襲することはとてもむずかしいだろう。

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