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 これと異なり、「暴れん坊将軍」の吉宗は、チャンバラのあとで正体を明かすのではなく、彼が正体を明かした後に、相手が開きなおって歯向かい、それならばと成敗する。

 だから将軍であっても、「避けがたい」立ち回りであると観ていて感じる。
 スペシウム光線を放って効かなければ、格闘に入るしかないのだ。

 また、吉宗は若いので、主人公自身が「暴れる」ことができる。
 徳川光圀と助さん&格さんを、一人ですっきり兼ねている感じだ。観る側の気持ちの移入がシンプル。

 ただ、現役将軍は、引退した「前副将軍」に対して、弱みだってある。
 全国各地をゆるゆる旅することは、よもやできないので(そんなことをやったら江戸がたいへんだ)、毎回の放送に空気の変化をつけることが難しい。

 「水戸黄門」ほどの長寿番組にならなかったのは、そのあたりが一因かもしれない(それでも20年続いたようだけど)。

社会の穴ぼこから生まれるヒット

 阿久悠という作詞家がいた。演歌からピンクレディーの曲まで手がけた、多彩なヒットメーカーである。
 この人はスタッフによく、「つねに時代の飢餓感をキャッチしろ」と言っていたという。

 実際の阿久作品からは、「今これが欠けているから埋めよう」といった発想で作ったという印象を、必ずしも受けないのだ。
 しかし、社会の潜在的な欠乏を、結果としてぴたり埋めることになったものがヒットするのは、理の当然といえるだろう。

 ピンクレディーにしても、遊びに満ちた詞世界から、斬新な振付けに至るあのトータルコンセプトは、みなが自分では気づかないでいたニーズに、とてもフィットするものだったのだ。

 とつぜん阿久悠やピンクレディーをもち出して、何がいいたいかというと――。

 毎週の番組としての長寿ドラマ「水戸黄門」が終了したのは、2011年のことであった(ちなみに「必殺シリーズ」はその2年前に終わっている)。
 特番的なものは別として、これで時代劇は民放の地上波から、完全に姿を消した。

 制作にお金がかかる点が、リーマンショック(2008年)後の不景気と合わないとか、シリーズの勤続疲労とか、若者のファンを作れなかったとか、理由はいろいろなのだろう。

 しかし、半世紀にもわたり「水戸黄門」(あるいは暴れん坊、金さん……)が高視聴率をえた理由と思われる、「胸がせいせいする」ドラマを観たいというニッポンの欲求が、2011年あたりで減少したとは思われない。

 むしろリーマンショック後の不景気により、社会で腹立たしく感じられることはふえ、「飢餓感」「穴ぼこ」は、大きさを増してさえいるのではないか。

 昔の日本では表立って非難されなかったセク・ハラ、パワ・ハラといったものは、社会からきびしく排除されつつあるが、ウラミ・ハラスメント的な感情発散は、いまも社会で強く求められている。

あるヒットドラマ

 懲罰ものの連続時代劇が姿を消してから、2年の時がたった2013年。とてつもない視聴率をあげた、一つのテレビドラマがあった。

 「水戸黄門」と同じTBSが制作した「半沢直樹」である。作り手自身が、「予想をはるかに超えた反響にびっくり」といったコメントをしていた。

 このドラマのヒットの理由は、役者がよかった(悪役もふくめ)、脚本がよかった等いろいろだろうが、私は上記のような、「人々が欲しているのに、大きな穴ぼこ状態になっていた所を、もろに埋めた」面も、大きいのじゃないかと感じたのだ。

 ドラマ「半沢直樹」のおおまかな流れは、憎々しい悪役が登場して主人公をネチネチいじめ、最後の最後、主人公がその相手を「土下座」させ、視聴者もそこで一緒にスカッとするというものだった。

 堺雅人が演じた主人公は、スーツを着た水戸黄門みたいな役だったのである。

 原作にない、主人公の前で悪役が土下座するシーンの付加は、ドラマ「水戸黄門」が終了したのち2年の潜伏期をへての、TBSの遺伝子発現のように私には映った。

 一話一話、話にケリがつくのではなく、続きもののストーリーの最終回で「仕返し」(このドラマでは「倍返し」という言葉だった)が成就する。

 そうした「半沢直樹」のつくりは、あの「忠臣蔵」の物語にも似ている。
 このようなウラミ・ハラスメント・ドラマは、ひとつニッポン人のツボ・ド真ん中なのではないだろうか。

 「忠臣蔵」でも、討ち入りされる吉良上野介は、お話の序盤からずっと、とろ火でコトコト煮込むように、たいそう憎々しい人物として描かれる。
 上野介は、とてもいい殿様だったという話が地元に残っていたりするのだが、それではドラマが盛り上がらないわけで、気の毒なことである。

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