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 接客業にかぎらず、社会生活にあっては、「このやろう!」とか「シンジマエ!」とか思っても、怒るわけにはいかない場面が多々あるのがふつうだ。

 そうしたうっぷんが日々たまるなか、「水戸黄門」の印籠シーンのように、じつはこちらのほうが圧倒的に立場や力が上であって、それを知らせたとたんいばっていた相手が「へへえ」となる、そんなことが起きたらいいなと空想するのは、美しくなくともやむをえぬ人間の感情ではなかろうか。

 ドラマ「水戸黄門」は、観る人が黄門様に感情移入した上での、そうしたうっぷん晴らしのバーチャル体験を、ずっと与え続けてきた番組だと思うのだ。

 だいたい、客という立場を利用して相手を土下座させる人間だって、自らの生活がもともと満ち足りていたなら、誰かをいじめたい強い欲求なぞ心にあふれはしないだろう。
 うっぷんを何かで解消したい欲求は、ストレス多き現代社会に満ちているのである。

 「水戸黄門」は、やる時刻がほぼ決まっているラストの「印籠シーン」あたりで、視聴率がグッと高くなるそうだ。
 その部分だけ、テレビをつけて(あるいはチャンネルを変えて)番組を観るという人がかなりいるのである。

 江戸時代の偉い人が、悪者を「へへえ」とさすのを見て溜飲を下げても、現実生活で何も問題は解決せず、くだらないと言う人があるかもしれない。
 しかし、それならつとめ帰りに一杯やって、ストレスを発散させる行為だって似たようなものだ。

 こうしたドラマで何かが多少なりとも発散され、現実のほうで誰かにうっぷん晴らししたいガスが抜けるとすれば、むしろ健全なことといえるだろう。

似ていつつ、すべてが高い視聴率

 このようなタイプの番組にどれほど大きなニーズがあったかは、「水戸黄門」(TBS)と同じ時期に、「暴れん坊将軍」だとか、「遠山の金さん」だとか(共にテレビ朝日)、「市井人が、最後にパッと偉い人の顔をあらわにし、悪を罰する」ドラマがいろいろ作られ、みな人気が高く長期シリーズになっていたことでもわかる。

 罰しかたのスタイルこそ違うが、「必殺シリーズ」(朝日放送)も、やはり視聴者の溜飲が毎回ラストで下がる作りのドラマだった。

 「暴れん坊将軍」は、「水戸黄門」のヒットを見て、TBSが「副将軍」の威光なら、うちの局はもう「将軍」にしちゃえ、みたいな発想でつくった番組に見えた。

 将軍・徳川吉宗が、身分をかくして町で生活し(徳田新之助という、しっかり「徳」が入った名前。光圀→光右衛門に似ている)、最後に正体を明かして悪を仰天させ、成敗する。

 「水戸黄門が全国を旅したなんてウソだけど、だれも問題にせず大人気なのだから、このくらいのウソもありだろう」と、作った人は考えたのではないか。

 もしかしたら、「暴れん坊将軍」が始まる前年に、局の名前が「NET(日本教育テレビ)」から「テレビ朝日」へ変わったので、もう学問から離れていいぞと判断したのかもしれない。

 ちなみに、同局の伝説の怪番組、「川口浩探検隊シリーズ」も、教育テレビでなくなるこのあたりでスタートしている。
 この番組は毎回、その発見が事実であれば、学会は大騒ぎになるだろうという内容の連続であった(実際には学会が反応することはなかったが)。
 局がそれまでのくびきから解き放たれるなか、いろいろなことを「やらせ」てくれたのかも……。

 「暴れん坊将軍」は、「水戸黄門」と似ていつつ、諸点を改良した印象を受ける作りだった。

 「水戸黄門」には毎回、ラストに多人数のチャンバラ・シーンがある。助さん、格さん、風車の弥七などが、悪者やその手下たちをかなりこらしめてから、印籠の出番となる。

 このチャンバラも、むろんドラマの華の一つになっている。
 しかし、これを毎回見ていると、結局徳川の印籠を見せて圧倒するのなら、チャンバラ前に出せば、悪代官などの命令でしかたなく戦っている下っ端たちの「ギャア!」は回避できるではないかと、感じないでもない。
 みんなきっと、家族だってあるだろう。

 黄門様の「印籠」というのは、このドラマ開始の3年前にTBSが放送した、初代ウルトラマンの瞬殺ツール、「スペシウム光線」に似ていると思う。
 敵と対峙したとき、すぐこれを使えばケリがつくのだけれど、主人公(たち)はその前に、かなり体力を費やして格闘/立ち回りをする。

 ウルトラマンが、必殺の印籠を隠し持っていることを知らず、「もしかするとボク勝てるのかな?」と思って、けんめいに戦っている怪獣等は気の毒であるが……。

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