かつてテレビ番組でよく目にした「忠臣蔵」も、近ごろとんと見かけない。
NHK大河ドラマは、十年のなかに一度は入れよという内規があるかのように、1964、1975、1982、1999年と忠臣蔵をやっていたけれど、今世紀に入ってからはゼロだ(一種の文化伝承のために、そろそろやってほしいものだ)。
「半沢直樹」が放送された2013年にあって、社会のなかに、確実にこうしたタイプのお話の大穴は開いていたのである。
視聴率がいまの方式で計測されるようになった1977年からの、約40年間における、民放ドラマの視聴率ランキングというのが示されている(これは関東地域のデータらしいが)。
ドラマ「半沢直樹」は、堂々、その第3位にランクしている(平成に限れば1位)。より詳しく言うなら、この記録はその最終回においてだ。
ランク一つ上の、第2位が何かといえば、なんと「水戸黄門(第9部)」である。
こうした骨格のドラマの強力さを感じずにおれない。
堺雅人という人は、ひょうひょうとしたコミカルな演技と、地位/威厳ある演技の両方がうまい俳優だ。高齢になったら、ぜひ水戸黄門役をやってほしいものである。
私はそのころ、いないと思うけど(万が一、草葉の陰からでも視聴できるテレビが生まれてたら観よう)。
なお、「水戸黄門」「半沢直樹」をおさえての、この40年間における民放ドラマ視聴率「第1位」は、前回ふれた昭和の家庭崩壊ドラマ「積木くずし」である。ひじょうに激しい内容のものがトップに来ている。
上記3作品は、いずれもTBSのドラマだ。「ドラマのTBS」の伝統は、いまも健在ということだろうか。
そのようなことをふまえて
話をもどしたい。
「水戸黄門」の主役に起用された武田鉄矢は、これまでいばらぬ庶民的な人物をずっと演じてきたなか、権力で他者を威圧する役を演じることに、もしかしたら少し抵抗があるのかもしれない。
それゆえ、番組のハイライトの印籠シーンにあっても、柔らかみのある、新しい黄門像をめざした。
しかし、上記のような事情からして、最後の印籠シーンばかりは、悪を問答無用で威圧する「圧倒的セレブ」の顔へ変わってもらわないと、この番組は本質的に死ぬであろう。
実際、過去の黄門役をふりかえっても、美男系の人より、悪役の経験豊富でパッと「恐い顔」ができる人のほうが成功している事実がある。
ちょっと脱線も入り長くなったけれど、水戸黄門「初回」の放送を観て、武田鉄矢の光圀公については、そんなことを感じたのであった。
しかし、その後の回を観ると、武田黄門はこの「印籠シーン」で、しだいに「前副将軍」らしい威厳ある表情へ変わっていったように見えた。
多くの金八先生ファンがチャンネルを合わすなか、いきなり権力感あふれる顔をすると違和感があるので、意図的にじわじわ変化させたのかもしれない。
そうだとすれば、初回の印籠シーンの表情は、橋渡し的にむしろみごとだったといえる。
時代劇という形式ならでは
たとえば、現代を舞台とするテレビドラマで、ある登場人物が悪のかぎりを尽くす。
弱者が死に追いやられたりするが、その人物の権力、あるいは狡猾な立ち回りのために、警察・司法の裁きにはかからない。
この悪党は許せんと私たちは思う。
それが積もり積もったドラマ終盤。ヒーロー的主人公がその人物を、もし長い刃物でバサッと切って成敗したら、私たちは爽快感をいだくだろうか?
そんなこわい主人公からは、ぱっと感情移入が引くと思われる。
どんな理由があろうとそんなのは殺人罪になる、お話としてぜんぜん気持ちのいい終わり方じゃないとも感じよう。
「現代もの」のドラマを観る場合、私たちは無意識にも、それをひじょうに「リアル」な視線で見ているのだ。
しかし、時代劇を観るときはそうではない。
いわゆるチャンバラは、もしこれをリアルなまなざしで見れば、人を切るためにこしらえた刃物「日本刀」を振りまわし、命を奪いあう戦いである。
ときどき刀を振って血を払う動作などしつつ、相手をどんどん切っていく主人公は、正義の味方どころか、おっかない大量殺人犯だ。
映画館ならまだしも、テレビでお茶の間に放送するには、適さないコンテンツということになろう。
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