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ソンタクが汚れた原因はソンタク(その2)
(「その1」続き)   1           目次

ことばは民主主義のドクダンジョウ

 (権力なき)権威たちの、にがい思いが、ほかならぬ国語辞典から伝わってくる印象を受ける一例がある。

 「独擅場」という言葉がある。ひとりの人物が、場を完全に、我がものにするさまを表す言葉。

 この字づらを見たとき、たとえば若い人は九割かた、「どくだんじょう」というオトが頭中で鳴るだろうと思う。今ほとんどの場合、そのように読まれているからだ(逆に、この読みに合わせて、独「壇」場とも、文字が変えられるようになった)。

 この語の元来の読みは、「どくせんじょう」である。
 漢字「擅(せん)」は――さらには「亶(せん)」も――独り占め/ほしいままといった意味をもつそうなので、意味の点でも読みの点でも、「独擅」は「独占」と重なる言葉といえよう。

 上で、「九割かた」とひかえめに書いたのは、漢検人気の影響などもあろうけれど、若い世代でもちゃんと「どくせんじょう」と読む人が、いることを知ったためである。

 すでに百年ほど前の書物に、「擅」を「壇」と誤記した例が見つかるというが、私が子供のころ、この語を「どくせんじょう」と発音している人はけっこういた。それゆえ、私はこの言葉の元来の読み方を知っている(学ぶはまねぶ)。

 むろん、当時も「どくだんじょう」と読む人はいたけれども、両方の読みを耳にするから、「どっちが正しいのだろう?」という目がもてたのであった。

 しかし、その後、誤読の「どくだんじょう」がどんどん勢力を増し、ある時点でこれが「多数決原理」で勝利をおさめ、現在のありようになっている。
 変化した理由が理由であるから、これは明らかに悪貨が良貨を駆逐したできごとといえよう。

 「どくせんじょう」という発声が、近ごろ若い世代だけでなく、年配の人からも聞こえてこなくなった理由は想像がつく。
 同世代の友人と話すと、「どくせんじょう」という読みを、やはりかなりの割合が知っている。しかし、自分では、この言葉は使わなくなったと言う。

 漢字の読みまちがいと知りつつ、「どくだんじょう」と口にする気にはなれない一方、いまの状況で、あえて「どくせんじょう」と発音することにも別種の勇気がいる。そんな躊躇が、この語を口から遠ざけるようだ。

 そうした年配者の「良貨死蔵」のせいもあると思うが、実際の使用で「どくだんじょう」が勢力を広げると、国語辞典もこの言葉を無視できない。
 独「壇」場のほうも辞典に掲載されることになる。
 
 その記述を見ると、「ほんとはこんな言葉、我々が心をこめて編纂している辞典に載せたくないのに」「でも、実際に使われちゃってるからなあ」という不快感が、紙面からほのかに立ちのぼっているような……。

 たとえば広辞苑の「独壇場(どくだんじょう)」の項目をみると、言葉の意味そのものはそこで説明されておらず、あるのは

(「擅(せん)」の誤読からできた語) (→)「どくせんじょう(独擅場)」に同じ。

という文章だけ。

 「どくせんじょう」の項目を、もういちど引けという指示であり、言葉の意味だけ知りたかった人には、二度手間な作りになっている。今ほとんどの人は、この「どくだんじょう」の方を引くと思うのだが……。

 民主主義にほんろうされまくっている権威たちの、かすかなかすかな嫌がらせではないだろうか。
 ほかの国語辞典の多くも、いまのところ、同じような冷たい客あしらいをしている。

ドクダンジョウ・檀ふみ起源説

 この件に関して、私は「ドクダンジョウ・檀ふみ起源説」という説を唱えている者なのだ。せっかくだから、この機会にそのサワリを開陳することにしたい。

 若い世代がもし読んでいたなら、このような経緯から、一つの言葉は誤った道へ転落するという見本(の可能性が少しあるもの)として、参考にしてほしい。

 むかし、NHKテレビに、伝言ゲームならぬ「連想ゲーム」という番組があった。

 紅白歌合戦みたいに、男・女の解答者が白組・紅組にわかれ、答を当てて得点を競うもので、高い視聴率をえて20年以上もつづいた。
 まだ「お茶の間」というものが存在し、家族みなでテレビを見る時代だったから、1度も見たことがないという人はほとんどいなかったのではないか。

 初期のこの番組に、檀ふみが、慶応大学の学生だったころ出演。知性派美女として番組の顔のような存在になり、結局15年も出つづけたという(人気ゆえ辞めさせてもらえなかったと想像)。

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