「権威」も統治不可能な、この非常に強力な民主主義の場で、はたしてそうしたことが可能だろうか?
可能性があるとすれば、ほかならぬ「民」の力や性質に、抗うのでなく頼ることだろう。
たとえば、私たちのなかに自然にあってしまう、上述のような、言葉のまちがいを犯すことはけっこう恥ずかしいという気持ちにうったえる。
といっても、誰かがまちがいを犯すたび、それを糾弾して恥をかかすなどというのは最低である。
私が、見かけると一つ自然に引き寄せられるのは、メディアがときどき載せている、「誤用が多い言葉・ランキング」みたいな記事だ。
言葉づかいの誤りや、ことわざの誤解(一例をあげれば、「情けは人のためならず」→「情けをかけることは人のためにならない」)、敬語関係(新社会人向けの記事)など、いろいろなタイプのものを見たことがある。紙メディアでも電子メディアでも。
この種の内容は、みなちょっと気になって読むということを、ライター側もわかっているのだろう。
メディアは、知識産業としての啓蒙意識をもちつつ、今後も積極的にこうした記事をつくってほしいものである。
一般の人もけっこう、ブログの文章等に、「最近耳にするこういう言葉、変だよ」といった不満を書きつけている。やはりこれも、言葉のことはみな気になるという人間性癖の、一つの現れと思う。
一般人によるこうした書きこみも、言葉の奔放すぎる変化を抑える上で、少し効くことだろう。読む人数は多くなくとも、発信側の(潜在的)人数が多い。
著名人がもしその種の書きこみをしたなら、何万、何十万いるフォロワーへの影響は多大である。
なにしろ、プロによる取り締まりが急減するなか、市民パトロールみたいな自主的行為にも期待せずにおれない。
言葉の専門家以外によるこうした指摘が、多数の人々へとどく道すじも昔はなかったわけで、こうしたものもネット社会ならではの、一つの秩序化作用といえる。
とはいえ、言葉が全体として誤用や変化を激しく増していくことは、避けがたいような気がする。
私たちは、そうした「言葉の乱世」に心の準備をし、慣れていかざるをえないであろう。
追記1: 言葉の変化に否定的な方向のことだけ書いて、話を終えるのは少し気持ちがわるい。逆方向の話も一つ記すことにしたい。
慣れた事柄の変化は、違和感を生むことが多いけれど、それをこえて、個人的におもしろいと感じているものがある。
たとえば、「やばい」という言葉の、最近の変化である。
危ない雰囲気を帯びた「やばい」を、その心臓ドキドキ感だけ利用して、「とてつもなく良い」何かの形容に使う。
誰が始めたか知らないが、このズラシには、うまいこと遊びよったなという印象を受ける。むろん元の意味を知りつつ、わざとやっていることだと思う。
英語圏でも、恐ろしい/ぞっとする意味の単語「オーサム(awesome)」を、寒さならぬその「ゾクゾク」感を介して、「非常に素晴らしい」「サイコー」の意味で使う人たちが現れたが、それと似た着想だ。
悪事系の隠語に由来するらしい「やばい」は、平成の若者により、突如「浄化」された。忖度とは違って、洗濯されたのだ。
忖度も、いつの日か洗濯されて元へ戻るといいが……。
追記2: ほかならぬこの欄で、いつだったか「忖度」という語を使ったような気がして、検索してみたところ、2年ほど前の「意外な人物の影」というトピックで、なんと私自身が総理の思いを忖度していたのであった。
ついでながら、あそこで紹介した加藤さんの「あんたも好きねえ」という発言も、まさにお客さんの心の推察であり、忖度であろう。
忖度しつつ、その対処として、人間の原初の姿へ帰っている。
ちょっとだけ帰っている。
(なお、加藤さんはこの行為により、1972年~1973年に一世を風靡したのであるが、そのまっただ中の1972年10月に、パンダが初めて日本にやってきて、こちらも一世を風靡した。
人々を全員集合させる秘訣は、やはり魅力的な素肌ということだろうか。
ちなみに、初めてパンダが来たときのわが国の首相は、あの田中角栄である。
この人のよく知られた言葉に、「田中はなぜ倒れないか。人間、はだかになったことがないからびくびくするんだ。おれははだかになっているんだもの」というのがある。
あのころ、圧倒的な存在たちには、ふしぎに通じるところがあったのだ。
もっともこの言葉では、加藤さんの場合とはちがう裸がイメージされていたのではないかと、私は元首相の心を忖度する。)
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