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たかが読みまちがい、されど読みまちがい

 言葉は、どうしたって時とともに変化していくものだ。漢字の読みまちがいだって、人間だれもが時にはすること。これは事実である。

 事実であるから、私たちがみな、そのあたりに寛容であるなら問題はない。ところが他方で、まったくそうでない面がある。

 40年くらい前から耳にする、「笑ってごまかせ自分の失敗、しつこくののしれ他人の失敗」という言葉ではないが、他の人がする漢字の読みまちがい、言葉づかいの誤りといったものは、自分のそれの何倍も気になる。

 ときには、そうしたまちがいのみによって、当人の総合的な能力全体が、ガクンと低く評されたりもする。地位ある人や知識人などの場合は、その落差のためか特に……。

 たとえば、むかし麻生首相が、「未曾有」(みぞう)という言葉を「みぞうゆう」と読んでしまい、メディアやネットでさんざんたたかれたことがあった。
 「このような人が一国のリーダーであるとは……恥ずかしい」みたいな言われかたをしていた。

 私も「みぞうゆう」の件、むかし若干いじったことがなくはない。誤読そのものというより、「みぞうゆう」という音の響きのおもしろさが、心のツボを強く刺激した気がする。

 しかし、一方で、このような言葉を正確に読めることと、政治家としての能力の間に、どれだけ本質的な関係があるのかとも思っている。むろん、党派に関係ない話だ。

 政治家は、利害が対立する多くの人をまとめる力や魅力が必要とされ、プレッシャーのなか、短時間で的確な判断をくだすこともできねばならない。
 政治、経済、社会、ときには科学技術にわたる知識を次々にインプットしなければならず、支持者たちとお酒を飲んだり、冠婚葬祭にたくさん出たり、政治資金を集めたり、選挙活動をしたりせねばならない。
 その上、言葉づかいまで完璧にせいというのは、「非人道的行為」という言葉が頭をよぎるほど厳しい要求である。

 そもそも「未曾有」なんて、日ごろめったに使わない言葉であり、あの出来事の前は、メディアでもネットでもまれにしか見聞きしなかった。しかし、あの後、多くの人がちょくちょく自分の文章で使うようになった。
 たぶんみんな、あの出来事で「未曾有」という言葉を覚えたのだ。

 現首相も、「云々」という語を読みまちがえたことを、やはりクローズアップされていた。

 これに対し、「漢字が読めない」→「こんな人にこの国を任せて大丈夫?」とまで、誤読をダイレクトに統治能力へ結びつけてとらえる人がいる(今もネット上にあり)。
 一方では、逆の立場の人が、首相は過去の答弁で何度もこの語を使っており、字を見まちがえたにすぎないと、日時や場所をこまかく示して擁護する。

 立場をこえて、「読めない」「実は読めた」というところに、ものすごくこだわっている。
 こうしたところに、国語学者だけでなく一般の人にあっても、言葉の誤りというものが、いかに「ささい」でなく感じられるかが現れていると思う。

 端的にいうなら、私たちは、「コトバ面の能力」と「その人の知力」を、ほぼ同一視するようなところを持っている。

 作家という、お話をつくる能力と言語表現力が豊かなだけかもしれず、社会性皆無な人もちょっといる気がする人々が、あんなにもメディアから「社会的コメント」「有識者コメント」を依頼されている理由も、このあたりにあるのではないか。

 はっきりした「まちがい」に限らない。言葉というのは、自分が子供のころからなじんでいる言い方が、わずか変化するだけでも、何だか不快に感じられるものである。

 たとえば、「この草、食べれるの?」「うん、食べれるよ」といった、いわゆる「ら」抜き言葉(⇔「食べられる」)。これは、過去にもしばしば日本語に生じた、口が仕事を手抜きしようとする変化の一種と見ることもできる。

 いわゆる「文法」だって、法というより実質は状況の整理であって、それを錦の御旗にしてこうした変化を否定することはできない。

 しかし、このような小さな変化でさえ、「耳慣れた何か」が変わることは気持ちわるさをもたらす。
 世代により、何が気になるかは異なるだろうが、変化が気になることじたいは、人間の根本的な性質に思われる。

開がっていくギャップ

 つまるところ、何が言いたいかというと――。

 私たちは言葉のまちがい、あるいは単に言葉の「変化」さえ、わりと神経質に気になってしまう性質をもっている(自分にとっての表現の「耳慣れ」みたいなものが、なぜかけっこう重要)。

 その一方、今後、社会における言葉のおまわりさんのパトロール激減により、言葉のまちがいや変化は、おそらく昔とは比較にならぬスピードで増大していく。

 このギャップに比例して、言葉にまつわる上のような不快感は、今後私たちの中でものすごく大きくなっていくことが予想されるのだ。

 言葉が時とともに変化することを否定するのは、むろん不自然な話である。
 しかし、原点参照なき伝言ゲーム的に、言葉があまりに奔放に変貌していくことは、便宜上、あるいは精神衛生上、望ましくない。できれば少し歯止めが欲せられる。

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