しかし、インターネットが出現し、だれもが自分の書いたものを世界へ発信するようになると(これがとても容易になったのが、21世紀に入ったあたりだ)、状況は一変した。
プロライターでないから当然だが、言葉の使いかたは間違いが多い。
そしてそれが、むろん校閲なしにネットへアップされる。
一般人の発信だけでなく、ネットメディアによる記事なども、コストや速報性のためか、紙メディアのような校閲はほとんど行われていない印象を受ける。
他方、情報を受けとる側は、紙メディアでなく、ネットから情報を得る割合が増している。読むものの半分以上が、友人や有名タレントによる気楽な多量の書きこみだという人も、多いだろう。
「こんな言葉づかいをよく目にする」という、言葉の学び=まねびの源が、いまは主にそちらへ変わったのだ。
こうした根本的な変化により、社会における「言葉づかいの誤り」は、これから、昔とは比較にならないスピードで増していくだろうと私は想像する。
先ほど、「伝言ゲーム」という例えを出した。
途中途中で「原点」を確かめることなく、推測のリレーで言葉が人の間を伝わっていくと、それは歯止めなく滅茶苦茶に変化していく。
このゲームは、まさにそこがおもしろいのだが(ずっと正確に伝わったら、実につまらない)、社会における言葉の意味や使いかたも、こうしたありかたへ近づくだろう。
私たちが目にする「文字情報」は、辞書を片手にした校閲者により、昔はほぼすべて正確化されていたのだけれど、そうしたあり方は完全に過去のものとなった。
いわゆる活字離れ(紙離れ)は、必ずしも知識離れを意味しないが、確実に、「正しい語法」離れではある。
もちろん、これは高い所から社会を嘆くようにして書いているものではない。このサイトじたい、上記のような文法・語法的に無法なネット空間の一部を構成している。
何か書いたら、ネットへ上げる前にいちおうセルフチェックしているが、「これでいい」と思って文字をならべた、その当人が審判員をやっているのだ。目の粗いザルで、濾過・浄水を試みているのに等しい。
もし新潮社の校閲部がこのサイトを攻めてきたら、ひとたまりもないだろう(そんなひまはないと思うが)。
だから、上のことは「こんな状況、けしからん!」といった思いではなく、ただ事実の確認なのである。
無法地帯も完璧に制する、あるルール
辞書というルールブックを片手に、「それはいかん!」と言葉を正させていた、校閲という名の司法(あるいはおまわりさん)の取り締まり力が、いま社会でおそろしく弱まっている。
言葉の世界はそうした意味で「無法地帯」化しているのだが、そんな状況でも完璧に機能している、事の決定システムがあると思う。
それをずばり、「民主主義」という言葉で名指したい。
すなわち、そこには「権威」と呼べるような存在もいるのだが(たとえば、言葉の由来や漢字の意味などを熟知する国語学者)、つねに「民」こそが主で、言葉の意味や使いかたを決定し、その決まりかたは、きっちり「多数決原理」によるのである。
ある言葉が、実際にどのような意味や使い方で「多く」使われているか。それがそのまま、その言葉の意味や用法になる。
この民主主義はふつうの意味の民主主義より、はるかに強力だ。たとえば北朝鮮や中国のような社会体制にあっても、言葉の民主主義ばかりは、抑えようもなくつねに機能していると思われる。
校閲のような正誤チェックでは、国語辞典は「ルールブック」であろう。まさに聖書のようなもの。
しかし、社会全体にあっては、辞書はあまり統制力をもちえず、むしろこれは、言葉の使われかたをあと追いで整理する、整理ブックと呼んだほうが正確かもしれない。
辞書側から見て「それは言葉の誤用だ!」という何かが出現しても、その誤用が「民」のなかで定着してしまったら、辞書はそれに合わせて変わらざるをえない。
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