才女たちの縁(えにし) (その5)
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「中」と「松」、同世代でもメッセージ残しの方法には個性があって……
「女性」シンガー・ソングライターの登場によって、女性ものの詞が「新時代に入った」という驚きを私が感じたのは、初期ユーミンのシングル曲、「ルージュの伝言」である。
バックコーラスはゴージャスに、山下達郎、大貫妙子、吉田美奈子。
この曲に登場する、浮気な男は、描写からしておそらく「夫」だと思う。
その男に対し、「私」は、家のバスルームに赤い口紅で、浮気はよせ、でないと帰らんぞと書きつけ、夕刻の電車に乗る。
男のお母さんのところへ乗りこみ、翌朝、男を電話でしかってもらおうというのだ。
これは男の作詞家でなく、女でないとぜったい頭に浮かばない発想だと思う(念のため、結婚前の「新井由実」時代の曲である点を付記したい)。
ヨメがシュウトメを味方につけて、夫を攻めようという発想は、日本の伝統的なヨメ/シュウトメ観を激しくこわしている。
男が夫でなく、親公認の恋人みたいな存在だったとしても、このタッグ感覚の斬新さは変わらない。
男への怒りの言葉を、紙でなく、風呂にルージュで赤々書く普通でなさ/直情感/衝撃与え感も、何というか、とてもパンクだ(この曲の出現は、実際にも、1975年前後とされる「パンク」登場ときっかり同時期であった)。
従来の女の子歌謡曲/演歌の歌詞と、あまりに隔絶している。
同じく、浮気な男へ書きのこすメッセージでも、片や、男のドアに爪で文字をきざみ(先述の中島みゆき「うらみ・ます」)、片や、バスルームに赤い口紅で文字を書く。
「書は人なり」ではないけれど、中島みゆきと松任谷由実の、初期の音楽の特徴が、この二つのヴィジュアルに象徴的に現れている気がする。
男から見てどっちがこわいかといえば、メッセージを紙に書かぬ時点で、どっちも激しくこわいであろう。
気球にのって舞い上がれ
私が「中・松」世代のなかに、「女の立場の激変史」がギュッと圧縮されている気がするのは、そこに矢野顕子がふくまれているせいでもある。
この人は日本人として、男のミュージシャンでもなかなか登れない高さへ、1976年にぴょんと跳躍してしまった人だ。
当時、米国に、リトル・フィートという腕利きロックバンドがあった(実のところ、今なお現役である)。ジャズ的演奏にも長けた実力派バンドであると共に、ヒットアルバムも持っている。
矢野顕子は、自作曲をたずさえて渡米。みずからは歌とピアノを担当し、彼らをサポートミュージシャンとして使って、「ジャパニーズ・ガール」というファーストアルバムを作った。
日本から、ハタチくらいの無名新人が行って、米国の一流ロックバンドの前に立てば、ふつうは気おくれする。
しかし、矢野顕子はそのへんビビらない人であり、リズムが非常に難しい曲(「クマ」)では、「はい、みんなこんな感じでやってね」「まだできてないわよ、もう1回!」と彼らを指揮し、えんえん練習させたという(矢野は「あれは、かわいそうなことをしました」と語っている)。
当初は、日本側が大物バンドに遠慮し、リトル・フィートのベース&ドラムだけに協力を頼んでいたが、矢野の演奏をながめていたリーダー(ローウェル・ジョージ)が、やおらギターを取り出してウォーミングアップを開始。
そして、自発的にスタジオに入ってセッションに加わり、翌日は、家から尺八まで持ってきてサポートしてくれたという。
彼はレコーディングのあと、「自分は矢野の要求にこたえる演奏ができなかった」と謝り、ギャラを受けとろうとしなかったが、説得して何とか受けとってもらったと、同行したプロデューサー三浦光紀は語っている。
ローウェル・ジョージは、アルバム「ジャパニーズ・ガール」の宣伝用ブックレットに、「彼女こそ全世界に影響を与え得る、初の日本人ミュージシャンだ!」「才能からいえば、スティービー・ワンダークラスだ」等々、これ以上ない絶賛のことばを寄せている。
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