構図の美さえ支えている「色彩」
フェルメールは、「絵の左上に窓があり、室内へ光が差している」という構図で、じつに多くの絵を描いた人だ。
そうした絵の一つに、「手紙を読む青衣の女」がある(しばしば短く、「青衣の女」と略される)。先ほどの「真珠の耳飾りの少女」より地味だけれども、内容的にけっして劣りはしない、この画家の代表作の一つだ。
できればここに、リ・クリエイトされた「青衣の女」を載せたいところだが、下の絵は、原画のほうである。
この絵と、「リ・クリエイト」された絵には、そこが今回の試みのねらいだから当然だが、色のあざやかさに大きな違いがある。
この絵に今回、次のような解説が付けられていた。
絵の右側、カンバスの端ぎりぎりのところに、イスの背が収められている。このイスはフェルメールが優れた構図感覚でそこへ置いているもので、もしこれを絵から取り除いたら、全体のバランスがいっぺんに崩れることが感じられるだろう。
たしかにこのイスが消え、真っ白な背景へと変わったら、そこががらんとしてバランスがこわれる――おそらくほとんどの方が、この解説の言葉にうなずくと思う。
これは、絵のなかに配置されている「物」(イス)についての指摘だ。しかし、絵の要素をこんなふうに勝手に抜き去ってならないのは、「物」のみならず「色」についても言えることである。
そもそも、このイスの例でも、それを取り去ると間がぬけた感じになるのは、右下を引き締めるように入っている暗色のラインが消え、白い空間がぼうっと広がってしまうせいだ。
イスは消さないけれど、その色を白に変えたらどうなるだろう、といったことを想像するなら、これは「物」というより、はるかに「色」の問題であることを感じるのである。
同じ絵をふたたび載せることにする。
この絵を見たとき、「青色が、左・中央・右と三点セットで配置されている」という点に、すぐさま強い印象を受けた方はあるだろうか?
ディスプレイの輝度が明るめであれば、元の絵以上にこれらはしっかり「青」に見えるかもしれない。
しかし、画集などで元の絵を見ると、特に右下のイスなどは、とりあえず(あるいは、もしかすると永遠に)「黒っぽい物体」に近い印象だと思う。
ところが、劣化した色を補った今回の展示を見ると、右下のイスもまた、すぐ意識される紺色であって、この色を左・中・右に配置したうえで、人物の青をとりわけあざやかにして浮かび上がらせている画家の工夫が、ストレートに伝わってくるのである。
極端な言い方をすれば、リ・クリエイト画の場合、見てすぐさま強い印象を受けるのは、「青が三方に、バランスをとって配されている」点であり、その次に「中央は人物で、両側がイスである」ことへ思いが行くというふうなのだ。
そう感じるのには、青の鮮明さ以外にも、大きな理由がある。
人物の背後の大きな地図(地図です)や、スカートは、上の絵では暗い茶色に見えると思うが、劣化した色を補った今回の絵を見ると、これはもっとはるかに明るい、黄色系へ近づいた色なのである(「明るい黄土色」とでもいうか)。
黄色系――すなわち、青の「補色」「反対色」だ。
後ほど書くある意図をもって、次のように言うのだけれど、人物のあたまさえ、地図やスカートとそっくり同じ色をもっていて、色としては「そちら陣営」の一員である。モノ的には、それは「人間陣営」の一員だけれども……。
主役の青を引き立たすよう、黄系はやや地味(黄土色)にしつつ、この二つの色であざやかなコントラストを作る――これはフェルメールにとってこの絵の肝だったのではないか。
他の絵でおなじみの「赤」が、上の絵で完全に排除されているのもそのためだろう(私は、ここにくっきりした赤が一点でも入ったなら、イスを消すのと同じくらい、この絵はぶち壊しになると思う)。
ふた系統の色でこの絵が描かれていることは、むろん分析的に見ればすぐ気づく点である。しかし、そんな分析と、絵を見た瞬間に美しいコントラストに強い印象を受けることとは、まるで違う。
この「青衣の女」は、いまから4年ほど前に、黒ずんだ表面ワニスをとりのぞく修復が行われ、かなり全体が明るい色へ変化した。
それ以前に発行された画集、つまりいま売られている画集の大半では、右下のイスの青色だけでなく、左下の黄土色の大きな布も、その下の青い机も、ほとんど黒色になってしまっている。当時、「原画」がそうだったのだから、仕方ないことだけれども。
17世紀に描かれた絵に関して、「5年ひとむかし」などという言葉が頭に浮かんでこようとは、思いもしなかった。
こうした違い(画家がちゃんと色を塗ったところが、ほぼ黒に見える)は、鑑賞者が絵から受けとる印象を、根本的に変えてしまう可能性があると思う。批評家による絵の解説などもまた……。
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