国際スター・ゴジラが足を向けて寝られない恩人(その2)
(「その1」続き)
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芹沢はなぜ思いを変えたか
「外国でよくヒットしたものだ」と感じたわけを、もうちょっと具体的に書いたほうがいいだろう。
(なお、当時の現実世界では、原爆よりはるかに破壊力がある水爆(水素爆弾)を、アメリカやソ連が競って開発していた事実を書いておく必要がある。)
このゴジラ第一作には、戦争で「ひどいケガ」を負った(右目を無くしているのだろう、黒い眼帯をしている)芹沢という科学者が出てくる。
芹沢は、水爆と同じような兵器になりうる自らの発明品、「オキシジェン・デストロイヤー(酸素破壊剤)」――想像だが、これは「ハイドロジェン・ボム(水素爆弾)」との対比で命名されたものではないだろうか?――を、ゴジラに使うことを断固拒否する。
その威力を実際に目にすれば、世界中がまちがいなくそれを兵器として利用しようとするだろうと考えてである。
しかし、結局、芹沢は考えを改め、ゴジラに対してこれを使うことに同意する。
それは、その時たまたま部屋のテレビに映った映像によってなのだが、この長いシーンには映画の作り手の気持ちがこもっている。
(伊福部昭が作曲した、映画中では「平和への祈り」と語られる歌が印象的に使われている)
テレビにはまず、ゴジラにより破壊しつくされた街の映像が映る。
敗戦からまだたった9年しか経っていない、これは1954年の映画だ。当時のお客さんの目に、空爆により破壊された国土の姿と、この映像は当然ながら二重写しになるものだろう。
さらに、ゴジラの破壊によって負傷し、建物のゆかに寝かせられている多くの人々を、カメラが横移動で映していく。やはり、後世の者にさえ、はっきり戦災を連想させる映像だ。
次に、年配の人々がラジオを囲み、そこから流れる歌を聞きながら、手を合わせて祈っているシーンが映る。
ここは、意図的に年齢を対比させているように思うけれど、最後に、制服を着た女の子たち(高校生くらい?)が、講堂のような所をぎっしり埋めて、祈りの歌をうたっているところが映し出される。
傷ついた国土に生えるいわば若葉のような存在たちなのだが、テレビのこの映像に至って芹沢がパッと目を伏せるシーンには、ふつう怪獣映画からはあまり受け取らないタイプの感情がわいてしまう。
映画の作り手が、どんな思いをお客さんに伝えようとしているか、よくわかるためである(平田昭彦もこの部分をみごとに演じている)。
芹沢自身が、戦争でひどい傷を負わされた人間であるという設定も、まさにここに関係しているのだろう。
皆を守りつつ新たな殺戮兵器も生まない唯一の方法として、彼はまさにこの場面で、発明品を使ってゴジラを倒すとともに、自らの命を捨てることを決意しているのである。
(この9年前に、現実世界に「特攻隊」というものが存在していたことを、観ていて思い起こさずにおれない。)
ふたたび顔を起こしたときには、芹沢の表情は一変している。
その次の芹沢の「君たちの勝利だ」という言葉は、別の意味でちょっと悲しい。それは芹沢が、目の前にいる二人と三角関係にあるからなのだが……。
このテレビ映像のシーンは、かなり長い。
しかし、日本人にはムダな長さではなく、戦後間もないころに映画館に足を運んだお客さんは、この一連の描写を見て、芹沢がなぜ考えを変えずにおれなかったかを実感で理解したことだろう。
私見では、この場面と、先述のラストシーンと、ゴジラが熱線で鉄塔をアメのように溶かすシーン(ゴジラの熱線は、第一作ではビームというより殺虫剤の噴射みたいだ)が、この映画の三大白眉シーンである。
対立のない三角関係
せっかくだから、この映画の「人間ドラマ」の部分についても少しふれたい。
先ほど書いた、ラストシーンで警句を述べる山根という生物学者(俳優は名優志村喬)は、この芹沢を自分のところへ養子入りさせ、娘の恵美子(河内桃子)と結婚させるつもりでいる。
一方、恵美子は幼なじみの芹沢を兄のようにしか感じられず、尾形という、海難救助会社の男(宝田明)と結婚したいと思っている。
しかし、そのことを父にも芹沢にもなかなか切り出せない。
芹沢は、誰にも知らせず研究を続けていた「オキシジェン~」を、恵美子にだけは見せる。
「あなただから見せたんだ。それを忘れないで」と言う。
すなわち、いまも恵美子を特別な存在だと考えているのである。
しかし、恵美子はこの発明のことを、あろうことか三角関係の相手、尾形に話してしまう。
もちろん、この発明により人々を救ってほしい思いからなのだが、恵美子と尾形が訪ねてきて、尾形の口から「オキシジェン~」を使わせてくださいと切り出された芹沢は、当然ながらびっくりする。
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