この映画で芹沢という男が、先ほどと別の意味でも悲しく映るのは、恵美子は尾形との関係を最後まで芹沢に言えずに終わるのに、芹沢は死ぬときに二人の関係を理解している点である。
彼は、ゴジラがひそむ海中にこの尾形(潜水のプロ)とともに潜り、尾形をひとり浮上させたあと、自らの発明品を使う。
そして、通話機で「尾形、幸福に暮らせよ。さよなら」と言って、空気管をナイフで切断して命を絶つ。
映画はそう表現してはいないが、研究と共に婚約者も失っている彼の死に、ちょっと別の意味合いも感じてしまったりする。
彼は、どこで二人の関係について察知したのだろう? うっすらではあるが、この映画はそれを描写している。
ひとつは上述の、「あなただから」と言って恵美子だけに見せた秘密を、彼女が尾形に知らせてしまうという出来事である。
恵美子は、その前に芹沢の研究室で「オキシジェン~」を見せられたあと、「わたくし、どんなことがあっても、(ここで言葉を切り、目を上げて芹沢を見る)お父様にだって絶対に申しませんわ」と言う(うなずく芹沢)。
この「お父様にだって」という少し余計な言葉は、巧妙な脚本家が意図的に加えたものだろう。
「絶対に」という言葉が、二人の間で何度も交わされるのだが、尾形の存在によってそれはあっさり反故にされてしまう。
あるいは、こんな(ゴジラ物語とはまったく無縁な)シーンが挿入されている。
恵美子と共に芹沢の研究室を訪れ、「オキシジェン~」を使わせてくれと言って芹沢を驚かせた尾形は、その少し後、芹沢ともみあいになる。ここで、芹沢は尾形の頭部にケガを負わせてしまう。
恵美子は尾形をイスに座らすや否や、すぐ胸から白いハンカチを取り出し、尾形の頭を後ろから抱えて血を拭き出す。それを見つめる芹沢。
このシーンなどはまさに、二人の関係を芹沢が察知する場面として挿入されていよう。
前述の、戦災と二重写しにされた描写と、三角関係にまつわるこの話が、共に流れ込んでくるために、芹沢が死ぬ前に言う「幸福に暮らせよ」という言葉は、よりあわれなのである。
「もし水爆実験が続けて行われるとしたら、あのゴジラの同類が……」という、ラストシーンの山根博士の言葉は、自分の息子になるはずだった男の死を見てのものなのだ。
引き継がれた三要素
ここで先ほどの2014年の米版ゴジラに関して、ぜひ書いておきたいことがある。
「怪獣王ゴジラ」ではない、東宝のゴジラ第一作がアメリカでちゃんと上映されたのは、何と2004年になってからだという(今から「ほんの10年前」だ)。
ゴジラシリーズの全DVDを揃えていたという、今回のゴジラの監督エドワーズも、こうした英訳版が作られて初めてオリジナル第一作を見たらしい。
私もそうだったが、実際に二つを見る前は「さほど大きな違いはないだろう」と想像していたのではないか。
第一作があの「怪獣王ゴジラ」にチェンジされた、ゴジラシリーズ全DVDを見た人(=エドワーズ)が、このシリーズにどんなイメージを抱くかといえば、当然、ピュアな「エンターテイメント作品」であろう。
核関連のシーン削除のことを聞いてはいても、エドワーズは実際にオリジナル第一作を見て、「原点はこんな映画だったのか!」と、かなりびっくりしたにちがいない。
そして彼は、その印象に駆動されて、本気でゴジラ第一作の精神を60年後によみがえらせようとしたのではないか。
すなわち、「鮮烈なモンスター映像が与える驚き」に加えて、核に関わるメッセージと、「人間も描く」という点である。むろん脚本じたいはハリウッドの精鋭たちが書き進めるにしても。
2014ゴジラは内容がどんどんふくらみ、当初、4時間くらいの長さになってしまったという。
映画をご覧になった方は、芹沢博士(こちらは渡辺謙)が、広島原爆投下の時刻で停まった父の時計を米軍提督に見せ、ゴジラに核兵器を使うことに反対するシーンを憶えておられるだろう。
あの映像だけを見ると、「何だ、広島の出来事を軽々しく映画に突っ込みやがって」と感じるかもしれない。
しかし、渡辺謙によると、あの場面にはもともと、原爆の悲惨さを芹沢がとうとうと語るセリフが、台本数ページにわたって書かれていたそうだ。時間の関係であのように圧縮されたのである。
エドワーズはかつて広島の平和記念館を訪れ、そこでこの恐ろしい停止時計を見ていて、映画にそれを活かすことを考えたらしい。ゴジラ第一作を強く意識している作品だから、あそこに出てくる長崎原爆の話に呼応している面もあるのかもしれない。
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