映画を見た方はまた、この作品がモンスターと人間の関わりだけでなく、人と人のドラマも描こうとはっきり意図していることも感じられたろう。
ここまで1本の日本映画の、(内容というよりは)精神に寄り添うようにして作られたハリウッド大作が、かつてあったろうか?
(ちょっとおもしろい対比は、ゴジラ第一作と同じ1954年に同じ東宝で作られた「七人の侍」と、ハリウッドの「荒野の七人」である。そこではおもに形式だけが洋行している)
残念ながら、反・核兵器のメッセージにしても、人間ドラマにしても、ゴジラ映像の凄さに比べると、こちらに十分伝わってくる仕上がりにはなっていなかったと私は思う。
それはおそらく、4時間の内容を2時間にまでそぎ落した、晴れの舞台前の過酷な減量に因っていよう。
今回のゴジラを見て、日本のファンが、「核に関するメッセージだの、家族のドラマだのいろいろな要素を加えず、あの凄いゴジラ映像をクローズアップした映画にすれば、もっと傑作になったのに」というコメントをネットに書きこんでいるのを見かけた。
「それもわかる」と感じつつ、例の「怪獣王ゴジラ」を見ている私は、そこで何とも複雑な気分になった。この1956年米版ゴジラは、まさにそのような映画であり、そのことで日本人から非難されているためである。
先述のように、私はゴジラ第一作を見たとき、これをつまらないと感じる日本人(特に封切り当時に観た人)は、まずいないだろうと思った。
初期の白黒特撮映画だから今の若いお客さんにはハードルがあるだろうが、その魅力をながなが書いてみたように、私はシリーズのなかでこの第一作をきわだった名作だと感じている(これが「傑作」という言葉なら、キングギドラの羽ばたきが頭をよぎったりするけれども……)。
しかし、他方、原爆や水爆による被災と、「放射能怪獣ゴジラ」のイメージがよもやダブりもせず、日本の文化・風習にもなじみがない人には、「この長いシーンは、単に冗長に感じるだろうなあ」「このやりとりはおもしろくないだろうなあ」と、映画を観ていてたびたび感じもしたのである。
だからそのあと、「怪獣王ゴジラ」を観たときには、事がいっぺんに腑に落ちた思いがしたのだ。「なるほど、これが上映されたのなら、世界のどの国だってストレートに評判になるだろう」。
もちろんゴジラ第一作を貶めようというのではない。たしかに「怪獣王ゴジラ」は、大切な要素をばさばさカットしているのである。
放射能がらみの話はもちろん、ゴジラを殺したくないという生物学者山根の苦悩や、先述の芹沢の苦悩など、人間ドラマ的なところも大幅に削られている。
しかし、これは元の映画があまりに豊かだったと表現したら正確だと思うのだが、それらを削除したあとの部分(主にゴジラの特撮)を最大限活かすよう、追加シーンを加えて構成した「怪獣王ゴジラ」を見ると、これが問答無用の娯楽的楽しさに向けて、きっちり流線形をしていると感じずにはおれないのである。
得意領域の合体
こと「エンターテイメント」という見方に限れば、この「怪獣王ゴジラ」には、ある絶妙のコンビネーションが存在していると思う。
すなわち、技術・創意工夫に満ちた日本の特撮映像と、アメリカの映画人がもつ根っからのエンターテイメント精神である。
「怪獣王ゴジラ」という映画は、「背中」役者を使うような撮り方からして粗製物だけれど、そうであってすら、アメリカ映画の地力やセンスはここに現れている。
戦争に負けてすぐの国が作ったB級映画に対し(あちらの認識では、着ぐるみモンスター映画などB級である)、「ちょっと当たれば儲けもの」くらいのつもりでアメリカ側は追加撮影をしたことだろう。
しかし、にもかかわらず、先述のようにかなりの数のアジア人エキストラに、ちゃんと当時の日本人らしい服装をさせたり、日・米の撮影映像の背景を、どの場面でもうまく似せたり――バーが演じる新聞記者が調査船に乗ると、背後の浮き輪にはしっかり「かもめ丸」なんて書いてある。
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