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 「男は度胸、女は愛嬌」という言葉がある。
 今うかつにこういう言葉を引用すると、まだネットも無い昭和50年に、「ワタシ作る人」「ボク食べる人」という即席ラーメンのテレビCMが、男女の役割分担を決めつけるものとして炎上した二の舞になりかねない。

 だから今はただ、人間にあって古来、度胸と愛嬌が重要と言われてきたとだけ書くことにする。

 ひとなみ外れた度胸は、オラオラ系の「上から目線」を伴うことが多い。逆に愛嬌は、「上から目線」な言動と相いれない。

 けれどもここに、ふつう同居しがたい二つを兼ね備えた人物がいる。
 「度胸と愛嬌をあわせ持つ」ことは、一般人もさることながらツッコミタレントの理想像ではないだろうか。

 この両方があっても前へ出るだけで空気が読めなければ敬遠されるが、かの人物はそうでなく気遣いも備えている。

 私はそのあたりが、後続者が現れ得ない浜田雅功の特別な天分、あるいは「消える魔球」の球の側のひみつではないかと考えるのだ。
 なかなかこの3点セットはそろうまい。

お笑いの地位を激変させた男

 「テレビのなかでのお笑いの地位」という話へふたたび戻ることにする。

 たとえば、テレビで松本人志を見てリスペクトする子供/青年たちは、そのことで必ずしも「お笑いタレント全体」を尊敬しないだろう。
 彼らみなが同じような発想力・トーク力をもつわけではなく、見上げる視線は「個人」に向かう。

 もちろん、大谷翔平や藤井壮太を見た子供たちが、あこがれて野球界や将棋界へ向かうような運動は、松本人志にあって明らかに起きたと思うけれども。

 一方、お笑いの世界にはツッコミと呼ばれる「一団の人々」がいる。ボケた言・動をした誰かをたたいたり、あるいは寸止めでたたく「動き」をする。

 そうした共通の動きという点で、個人というよりツッコミの「代表的存在」として、浜田雅功はいる。
 この代表的存在が、横にいる歌手・俳優・文化人のあたまを、とても高い確率ではたく。

 彼が民放全局で、ゴールデンタイム~深夜にわたり、何十年も絨毯爆撃のようにやってきたこの行いが、「お笑いタレント」全体への、子供たちの見方に多大な影響を与えたと私は考えるのだ。

 たとえば学校で昔、先生が生徒の頭をはたくことはよくあったが、その逆というのはまずない(もしやるなら退学を覚悟していよう)。

 会社で、上役が部下の頭をはたくことはあったが、その逆はまずない(もしやるなら退職を覚悟していよう)。

 はたきはこうした相互の「上下」感覚がベースにあるものであり、そう考えると浜田雅功は、バラエティ番組という特殊ミノのもと、やはりドテライことをやっていると改めて感じる。

 子供というのは、私たちが小学校のころドリフや欽ちゃんを知らぬクラスメートなんていなかったように、ほぼ全員がテレビで時の人気お笑いタレントの番組をくぐり抜ける。

 おそらく、1975年ごろ以降に生まれた日本人(平成初めに小6ないしそれ以下)は、みな子供のころ、やわらかい心にハマダのこの爆撃を受けている。

 人間、子供のときに見たものが、「この世界はこういうものだ」という常識を作る。

 お笑い芸人=「テレビ出演者のなかで一段低い存在」という印象は、彼らにはない。

 このことは、土台じたいを持ち上げるような効き方で、能力と魅力をそなえた若者がこんなにも多くお笑いを目指す現状にもつながっていよう(誰が、格下の扱いをされる存在をめざすだろうか)。

 大げさにいえば、その結果の積み重ねがいまのテレビ界の状況をつくっている。

これから全盛期?

 テレビでいま一番売れている芸人は浜田雅功ではないかという、業界人のコメントをネットで先日見た。
 彼がゴールデンプライム帯でMCを担当する番組が、今年また増え、ピンで4本、コンビで3本、週7本に達したという。

 テレビ界が、若い層の視聴率だけ重視するようになっているなか、昔であれば「定年間近」の年齢のタレントがこうした状況になっているのは異常である。
 昔からのファンだけでなく、若者の支持もしっかり得ているのだ。

 実績からして出演料はトップクラスであろうが、その人物が、コロナ問題→広告費減少でかつてなく制作費きりつめが求められているというテレビ界で、ひっぱりだこになっている。

 浜田雅功に対する評価の、尋常でない高さを証明するできごとである。

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