「怒りっぽい」という印象を彼にいだく人が多いようだが、あれは仕切り役としての、一つの話芸のような気がする。
「まだ若葉マーク付き」みたいなテレビ出演者が、バラエティ番組で不器用なふるまい/しゃべりをして、場が白けそうになることがある。
そこで浜田雅功が「かんしゃく」的なリアクションをすると、これが怒りだけれど愛嬌を含んでいるために、空気がパッと変わり笑いになる。
彼の、何というか「怒る尻ぬぐい」とでもいったものが後ろに付かなければ、このくだりは編集でカットされ、放送内容になっていないだろうなと思う。
浜田雅功を、ただ荒っぽさが特徴のタレントと見ることは大まちがいであって、この人物は番組進行者として天才なのだ。
頭をはたく行為は目立つから、そこだけが特徴のように見られがちだが、全くそうではないことが、いまの年齢とテレビ界の状況にあって明確になりつつある。
もちろん松本人志のほうもまた、からだが空き次第、すぐさま新番組が立ち上げられている模様である。
還暦まぎわのお笑いユニットが、コンビでNHK紅白歌合戦のあたまを張らんとする人気番組などを持ちつつ、それぞれが単独でもこのような状態にあるというのは、まちがいなく前代未聞といえる。
たとえば、イギリスで近所の友だちがたまたま組んだバンドのなかに、「ジョン・レノン」「ポール・マッカートニー」という二つの特級の才能が入っていたという、ビートルズの奇跡。
そんなことを、同じく近所の友だちが組んだ「ダウンタウン」から私が連想するといえば、比較の相手があまりに大物すぎると言われるかもしれない。
しかし、ある小学校の同級生という「たまたまの二人」のなかに、よくこの二人が入っていたものだという私の印象は、実際そのようなものなのだ。
「役割が人をつくる」ことは組織などで確かにあるけれど、芸能界のような過酷な競争世界ではそれも限度があるのであって、上記の状況を生んでいるものは天賦の才としか言いようがない。
ブックエンド
ポール・マッカートニーが、ジョン・レノンの没後40年目にあたる昨年、自分はいまでも曲を作るときジョンを思い浮かべ、心のなかで対話をしながら作っている、たぶんジョンの方も同じだったんじゃないかなと語っていた。
一緒にやったのは10年きりで、彼はそのあと50年もジョン不在でやっているのに……。
二人は相手を欠くと十分な力が出ない、ひと組のブックエンドのような間柄だったのだなと思った。
初期のダウンタウンは、テレビで他のタレントとからみながらバトルし(パイの大きさが決まっている場ではどうしたってそういう面があろう)、しだいに冠番組を増やしていった。
そこでは、アグレッシブに前に出る人物(昭和の「あばれる君」)と、先輩の頭を張ることなどできなそうな繊細系のクリエイティブな人物が、ペアを組んでいることが非常に効いているように思われた。
すなわち、私はこのコンピからもまた、両方がそろったとき力を発揮する、ひと組のブックエンドのような印象を受けるのである。
それぞれが単独で十分にやれる現在も、コンビでの仕事が非常に多い理由はそのあたりにあるのではないだろうか。
(このトピックは、ひとまずこれで終わりであるが、ダウンタウンについて片方の人物だけにしかふれないのは、まさにブックエンドを一つだけ写生するような不完全な感じがある。いずれ続きを書くことにしたい。)
P.S.: 私は東京に住む者だけれど、むかし関西の寄席や劇場へちょくちょく足を運んでいた。ダウンタウンが花の1期生になるNSC(吉本総合芸能学院)が、大阪でまさに生まれたころからだったと思う。
1980年代の「漫才ブーム」をきっかけに、関西のトップ漫才師がおおぜい関東進出し、それ以後お互いの影響で東西の差が小さくなったが、かつて両者の芸風はずいぶん違っていた。
より広く「関東・関西」をテーマにして、以前そのあたり「混雑、大きなもの、大阪」というトピックで書いたので、未読の方はそちらもお読みいただきたい。
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