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そもそも、低いという感覚などない

 ダウンタウンが、続々とお笑いの才を輩出する関西の出身ということで、私がもう一つ想起するのは、この地では「おもしろい」人の地位が、日本の他地域に比べてすごく高い点である。
 スポーツができる、勉強ができるを上回って、学校ではおもしろい子供が一番の人気者になるという……。

 テレビ界にむかし「お笑いふぜいが」という空気があった話を先ほど書いたが、正確には「関西は別として」と書き添えるべきだったろう。

 それはかつて、役柄としてのボケでなく天性のボケといわれたお笑いタレント・横山ノックが、「大阪府知事」に立候補して全国を驚かせただけでなく、ダントツの得票で当選して再度驚かせた事実にも現れている。

 そうしたなかで育ち、お笑いタレントになった人にあっては、有名歌手とか作家とかいっても、そのことだけで気持ちが卑屈になる相手ではないだろうと思われる。


 しかしながら――。関西出身のお笑いタレントみなが、浜田雅功のように大胆な、周りをハラハラさすメントなツッコミを行うわけではない。

 それどころか、彼が出てきたころ、その下剋上なはたきを私は「空前」と思ったけれど、令和のいまふり返ってみると、このような人物は31年間にわたる平成を通過して、なお「絶後」でもある。

 浜田雅功は巨人ファンであると以前語っていて、そのことに大ヒット漫画「巨人の星」の影響があったかどうか私は知らないのだが、この漫画が教えるのは、球の下の「土壌」のみで魔球の奇跡は生じないということである。

 「球」にも特殊な原因があり、それが土壌と合わさって初めて、私たちは唯一無二の現象を目にする。
 では、球の側がもつ原因とは何であろうか?

なぜ浜田雅功の右腕だけが魔球を投げるか

 先ほど、「ボケ」た誰かをポンとやることは、否定でなく相手を活かすフォローであるといったことを書いた(お笑い番組のような場では特にそうだろうが)。

 しかし、人さまの頭をたたくという行いは、一方で尋常でない「度胸」「勇気」を要することは言うまでもない。

 手をのばす先が、大先輩のタレントの頭となればなおさらだ。なぜ浜田雅功にはそれが可能なのだろうか?

 ある人は美しい音楽を生む才を与えられて生まれ、ある人はとびきりの美貌を与えられて生まれる。
 それと同じように、ある人が尼崎で、日本人のほとんどが授からぬ特別な度胸を与えられて生まれたとしか言いようがない。

 ダウンタウンのことを「知ってはいるけれど……」くらいの人(特に年配の人)は、浜田雅功を単なる乱暴者みたいにとらえていることが多い。

 しかし、相手かまわず、暴風雨のように隣のタレントの頭をたたいていたら、彼はとっくにテレビ界で干されているはずだ。
 そうならないのは、事前に楽屋などでちゃんと関係性を作ってあったり、「はたいて大丈夫な人」「いかん人」を、当人のオーラで判別した上で行為に及んだりしているためだろう。

 「ふだんは礼儀正しい」ということが、先輩タレントなどからしばしば語られていて、番組でああしたことができる背後には、高いコミュ・力や気遣い力が隠れているのだと思われる。

両極をそなえた男

 加えて、私がもう一つ重要な点と思うのは、彼が肉体言語におよぶときのビジュアルな印象なのである。
 もしその手の動きが、昔の野球監督の「鉄拳制裁」みたいな感じだったら、とてもバラエティ番組にはそぐわない。

 しかし浜田雅功の場合、動きにしても、表情にしても、そこに天賦のものとしか言いようがない「愛嬌」がある。60歳に近づいてなお、悪ガキ的「かわいさ」がある。

 相方がよく浜田雅功を「ゴリラ」と呼んでいるが、彼がたとえば志村けんの頭をはたくさまは、お猿さんが飼い主の頭を芸としてちょこんとたたき、「きい」という顔をして観客を笑わすような、笑いにちゃんと入る「軽み」をもっている。

 「事務所の後輩を、殴る蹴るする」と文章で書けば、恐ろしい光景が想像される。しかし、浜田雅功は正確にこのとおりのことを放送でよくしているが、受ける印象はぜんぜんちがう。

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