フレディの耳に、ジョンのこの発言が達したかどうか定かでないけれど、達したならさぞかし嬉しかったことだろう。
ビートルズ解散&クイーン結成の年(1970年)から、約10年の時をへて、ジョン・レノン⇔フレディの影響の流れは双方向になった。
そしてここでまた、曲タイトルに顔をのぞかせているのがあの「Love」という単語である。
「歌はもともとラヴソングが多い」という度合いをこえ、この二人がずっと尋常でなくこだわったワードだ。
ジョンの場合、代表作の一つ「イマジン」では、人類愛のようなレベルまでそれを拡げたのであったが。
「愛こそはすべて」(All You Need Is Love)という、ジョンがビートルズ時代に書いた全米・全英No. 1ヒット曲がある。
後世のヒット作品、「オール・ユー・ニード・イズ・キル」の、もじり元だ。
「愛こそはすべて」というタイトルを聞くと、クイーン・ファンの多くは、「愛にすべてを」(Somebody to Love)という、フレディの代表作の一つを連想するだろう。
後者の邦題を考えた人は、たぶん前者の邦題を意識したと思うが(原題そのものは似ていない)、実際に「愛がすべて」みたいな姿勢で曲を作り続けたジョンとフレディであるから、「いい邦題をつけましたね」と感じる。
私はビートルズの音楽は好きでも、その「Love」メッセージ押し(ジョンが特に熱心だった)は、正直、すばらしいと思えなかった。
能天気すぎはしないだろうか? 度々だと、むしろ安っぽくなるのじゃないか?
けれども、ジョンのソロ作品を聞いていくうちに、なぜこの人がこんなにも「愛」というテーマに執着しているのか、感覚的に染みこんでくるようになった。
能天気であるどころか、それは「ヘルプ!」や「マザー」で聞かれるジョンの悲鳴と、コインの裏表のようにして存在しているのだと感じるようになった。
かの「愛こそはすべて」で、ジョンは”Love is all you need”という歌詞をくり返し、最後「イエスタディ」や「シー・ラヴズ・ユー」といったラヴソングを歌い出すのだが、この執拗なLove押しも前とはまるで違って聞こえるようになった。
そんな歌じゃないのに
さてそこで、フレディがLoveの御大ジョン・レノンに影響を与えたLoveの歌、「愛という名の欲望」(原題”Crazy Little Thing Called Love”)である。
歌詞を通して読んだ人は別だろうが、邦題が「欲望」なぞとされているせいで、日本のクイーン・ファンのほとんどは、これを「ハートよりも肉欲」的な、ギラギラした内容の曲と想像しているだろう。
「愛という看板だが、実は欲望」みたいなタイトルなのだ。
私が先ほど「悲しい」と書いたのはこの点である。これはいっそ、「かわいらしい」と形容していいような歌詞内容をもつ曲なのに。
この邦題がなぜ生まれたか、想像されることがある。むかし、マーロン・ブランド、ヴィヴィアン・リーという二大スターが共演した、「欲望という名の電車」という名画があったのだ(元は戯曲)。
邦題は原題をそのまま日本語にしたものだが、想像が広がる味わいぶかいタイトルであり、1980年ごろ大人だった人は、みなどこかで耳にしたことがあったはず。
「愛という名の欲望」というあの曲名は、おそらくこの有名タイトルを下敷きにしている。
クイーンの原題の最後は"called love"だから、「欲望という名の」を「愛という名の」に変え、はみ出した「欲望」を、「電車」の位置へ置いたものだろう。
しかし、実際の歌詞を見るなら、この曲は欲望といったぎらぎらドロドロした感じとは無縁なのだ。軽快なサウンド同様、詞のほうも実に軽々している。
内容は具体的には、「"Love"を、俺はどうしてもうまく扱えぬ」「赤ん坊のように泣いちまう」「だけどそれが大好き」といったもの。
「赤ん坊のように泣く」というくだりに、「フレディが実際そんなふうなのかもしれん」と、何だかリアリティを感じてしまう。先ほど「かわいい」という形容をしたのはそのためである。
「愛こそすべて」でありつつそれにほんろうされる、フレディらしい感覚が詞に満ちている。
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