コラムにはたとえば、次のような疑問(というか怒り)が書かれている。
なぜ渡辺の「見えない」対象が新聞や企画書なのに、菊川の「はっきりきれいに見える」対象が綺麗にネイルの塗られた爪なのか。
ハズキCMで描かれている、男女の喜びかたの違いである。
考えてみれば、ムツカシゲな書を手に、字がよく見える喜びを語るのは、渡辺謙より菊川怜のほうであっておかしくない。しかし、このCMで彼女は、完全に「セクシー美女」という記号を演じている。
むかし、「炎上」という言葉がまだ現在のように使われないころだが、現象としてはまさに大炎上して放送中止へ追い込まれた、一つのテレビCMがあった。
ハウスの「シャンメン」という、インスタントラーメンのCMである。
ラーメンどんぶりを前にして、若い女性と女の子が「私、作る人」と言い、次に男の子が映って、「僕、食べる人」と言う。男女の役割分担を決めつけるCMだと抗議され、数ヶ月で放送中止となった。
矢部氏は、ハズキルーペのCMにこれに類するものを感じたのかもしれない。
よく見えて嬉しい対象が、企画書とネイル。いわば、「僕、仕事する人」「私、身を飾る人」。
氏は30数年前に、先述のように朝日新聞社へ入り記者になった人である。当時、女性記者はいまよりずっと少なかった。
男性記者とともに取材したり、社内で記者以外の女性と接したりするなか、上のような点について思うことはいろいろあったであろう。
ことしは財務官僚の女性記者へのセクハラ問題が、社会を揺るがした年であった。「男女間でのこのような言動は、セクハラに該当するのか?」「この場合は?」と、社会がかなり敏感になっている。
そうしたピリピリ状況を踏まえての、「あれがなぜ炎上しない?」でもあるのかもしれぬ。
解放の意味
ただ――。「作る」「食べる」の役割固定は時代錯誤としても、差別から遠ざからんとして、男女「同一化」へどんどん突進していく傾向はどうだろうかと私は思う。
いま世界に、女の国家リーダーが次々誕生している。
彼女たちは公の場でカラフルな服を着たり、化粧をしたりすることを別にやめはしない。ネイルといえば、ヴィジュアルに思い出すのは英国のメイ首相の真っ赤なネイル。
むろん自分の意志でしていることであり、それに対し男の政治家が、俺たちとちがい目立つ格好をしやがってと不快感をいだくこともない。
明らかに、男女区別的なありようは存在しているのだが、両者に問題はぜんぜん存在していない。
かつてウーマン・リブ(女性解放)運動が盛んだったころ、「解放」精神の反映として化粧をしない有名女優がいた。
それ自体はむろん個人の自由ながら、女性解放と、化粧やスカート姿やおしゃれをよすことは、ぜんぜん別ごとじゃなかろうかと思ったものである。
お化粧はファッションと地続きになっている印象を、見るほうとしては受ける。どちらも、別に男向けだけにするわけじゃあるまい。
ミニが生んだお菓子
「アーム筆入」のCMと同じころ、ツイッギーという英国の女性モデルが来日し、大旋風を巻き起こした。ツイッギー(小枝)という名の通り、足がすごく細く、「ミニスカートの女王」と呼ばれていた。
日本のテレビCMにも登場。「チョコフレーク」のCMに起用した森永製菓は、のちに彼女と商品を合体させて(?)、「小枝チョコレート」という人気商品を生んだ。
仮に、ゾウならぬ彼女が筆箱を踏むCMが放送されたなら、それはそれで妙に売れたかもしれぬ。
生活でうっかり筆箱を踏んでしまう可能性は、少なくともゾウよりツイッギーのほうが高いだろう。
ミニスカートという服装。これも、男がヨロコブだけでなく女の好みにも合って、時をこえて大人気のファッションに思われる。
西洋の男性スターなどが、細いジーンズ姿で立つ写真がかっこよく、1970年ごろ日本で太ももぴったりジーンズが流行ったが、ミニスカートはそれに通ずるおしゃれという印象もある。
我々は、ずっと男女とも、ロングスカート「キモノ」でやってきたからなあ。
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