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もう一つの共通点

 先ほど、大谷翔平→ローラという連想のことを書いた。それは、何だか別枠な空気感みたいなもので、先輩と並んでなじんでいる印象とは、また別の理由にもよっている。

 デーモン閣下や亀田兄弟は、キャラの際だちかたが尋常でなかったので、似た形で後続する存在は現れていない。

 しかし、ローラは、彼女が正確に「始点」かどうかはともかく、テレビ内に、ある「居かた」みたいなものをくっきり確立し、そのことで、同系のタレントが次々に現れる現象を生んだ。

 すなわち、「西洋的な顔立ち」(ハーフ、クォーター、……)をもち、諸先輩にタメ口で話す若い男女である。
 自分からパッと始められるほど、みな度胸があるとは思われず、ローラの成功を見て、事務所が「お前もあのスタイルで行け」と背を押したりしたのではないか。

 そのあたりの良し悪しは、置くことにする(それは社会全体の受けとりが決めることだ)。
 ここでの話との関わりで、私がおもしろく感じたのは、みなの目がそうした存在に慣れると、しだいに、外観が「ほぼ日本人」の若手タレントにも、同様の存在が出てきたことである。

 たとえば「りゅうちぇる」って、純日本人の美青年で通る顔立ちだと思う。「変化の切っ先」「蟻の一穴」としてのタレント・ローラは、結果として、日本顔ムラの内部へも影響を及ぼすに至ったように見える。

 話をふたたび、アメリカ野球へもどす。あちらにも、投・打「二刀流」(Two-way)をしている選手は、マイナーリーグであればいる。
 しかし、彼がその延長で、メジャーリーグでもこれを行うことは不可能に近かっただろう。二つを高レベルで両立させることが難しいだけでなく、先述のように、他の選手たちの起用にもかなり影響をおよぼす話だからだ。

 今年のシーズン開始前、大谷がまだ良い結果を出せてないころだったが、彼の二刀流について尋ねられたメジャーリーガーが、「ボクもやれるもんならやりたいよ」と返答していた。

 それは、「そんな力があったなら」でなく、「トライを許してもらえるなら」というニュアンスだった。ここにはやはり、単純に能力だけでなく「門前払い」的な面が存在するのである。

 しかし、大谷がメジャーで二刀流を実際にやって成功し、少なくとも事が「論外」でなくなったのちは、いまマイナーにいる上記の選手もこれにトライしやすくなるのはまちがいない。

 異文化が、何となく「別枠」的なオーラで道を開き、その様子に世間が慣れると、次には「同文化」内でも心理的なバリアが薄れる。
 内容はだいぶ違うけれども、私はそうした意味で大谷翔平&ローラのケースは、日本⇔西洋を入れ替えた形でそっくりであるように感じたのである。

 これは冒頭の話にあってもいえることだ。「ゴーン改革」は外国の人だから可能だった面があっただろうが、こうした成功事例が一つ出現したのちには、どこかの会社で日本人トップが同種の大改革を打ち出しても、抵抗感は「ゴーン前」より明らかに小さいことだろう。

日本が引っぱる女性活躍社会

 同じ文化内では最初から却下されてしまう道を、異文化からの横入り(?)だと歩める。私がその典型のように感じるのが、日本人女性の、世界のジャズピアノ界での大活躍なのである。

 ジャズは言うまでもなく黒人が生んだ音楽であって、大物ジャズマンの大半は黒人。このジャンルとなれば、彼らは素質的に白人や私たちより、適性をもつだろうと感じずにおれない。

 そうであれば、たとえば女性のジャズ・ピアニストといった存在も、トップクラスは黒人が大半で、他はちらほらという状況になっていておかしくない。
 ところが、実際の状況はちがっている。

 むしろ、たとえば日本の女性ピアニストたちが、世界で大活躍をしている。
 草分けのひと秋吉敏子に始まって、木住野佳子、松居慶子、大西順子、山中千尋、上原ひろみ……。

 その活躍は、リーダーアルバムが米ビルボードで1位を獲ったとか、国際的な批評家投票で当人が1位になったとか、米誌の読者人気投票で1位になったとか、バークリー音楽大学に先生として迎えられたとか、華々しいものである。

 ほんとうは上の名前に、日本人女性ピアニストをあと3、4人、同列で名を挙げねば、ファンに怒られることだろう。

 私自身、他にも名が浮かぶのに書かないのは、書けばさらに「これだけ名を挙げつつ、なぜ○○さんを落とした」となるので、人数だけを書くことにより、批判に対して「結界」を設けているのである。人は年齢とともに、こういう姑息な方法も覚えがちだ。

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