以前ここで、1970年代にアメリカから日本に入ってきた「ウーマンリブ(女性解放)」運動について書いた。「性による役割分担」を無くせという運動である。
あちらでは、先述のように1960年代に「公民権法」で人種差別が法的に撤廃され、そうした社会の空気もあって、人種の次は「性」差別を無くせという運動が盛り上がったようだ。
この運動の一つの大きな到達点が、1970年代の、国連の「女子差別撤廃条約」採択である。
1960年代と1970年代という、この時間差にも、ちょっと注目していただきたい。
以前も書いたように、日本では1970年代に多くの女性闘士が現れたこの運動に、私はあまり好印象を抱かなかった。
1970年代半ばあたりだと、私はすでにティーンエイジで、男女の役割分担はあたりまえだという「常識」が、それまでの生で心に刻まれていたせいが一つあろう(そもそも学校に、仕事系&家庭系みたいな、男女別々の科目があったのだ)。
しかし、逆にいうと、「まだ」十代半ばのころに、「男と女の仕事を同じにするという発想もあるのか」「社会はどうもそちらへ動いていきそうだな」とも思ったのである。
その意味で、感覚的に「切り替わり世代」に属しているといえよう。
日本でこの運動が盛り上がった、あるいは国連で「女子差別撤廃条約」が採択された1970年代から、40年ほどたった時期に目をやってみる。すなわち、2010年代である。
するとこれは、日本に女性の首相候補と呼ばれる人が、続々出てきた時期にあたっている。
私はこの「40年」という長さは、たまたまではないと考える。
事が投票で決まるような世界では(「総裁選」等もふくめ)、選ばれる側よりむしろ、票を投じる人たちの感覚こそが結果を決める。
そこが、40年の時をへて大きく変わった――というか、おそらくより正確な言いかたをすれば、人が世代的に入れ替わったのだ。
20歳ごろまでに心に刻まれたモノは、その後もずっと、かなり堅固に残るものなのである。
上の二つのできごとの間の40年という長さは、それを如実に示している。
この期間の空気の変化を、私自身ずっと見てきたから、「変化のゆっくりさ」と、「40年をへての根本的変化」の両方を、あれこれの具体的な思い出とともに感じる。
変化の遅さにいらだっていた人がいた。ずっと続いてきたものの変化を、嘆いていた人もいた……。
たぶんそれらの間のバランスが、この40年の意味なのだ。
米国での40年
ロメロの映画初作で、黒人が主役にすえられた1968年。これは、ノーベル賞受賞者のキング牧師が、暗殺された年でもあった。
人種問題のこの重大事件があった時から、上記の「40年」たったころのアメリカを見てみる。
すると41年後にあたる2009年に、黒人が、現実のなかでほんとうに主役にすえられる出来事が起きている。オバマ大統領の誕生だ。
上のような出来事を、1968年に若者として見た世代が60歳前後になり、それより下がすべて「公民権法」=「常識」世代になったあたりで、こうしたことは起きたのである。
同じように、映画「エイリアン」で、女性がバトル・ストーリーの主役にすえられた1979年の、40年後あたりも見てみる。
すると38年後の2017年に、ヒラリー・クリントンが、女性として初めて大統領選の最終舞台でたたかうという出来事が起きている(前にも書いたように、得票数じたいはトランプ候補を上回ったのだった)。
私はこの40年も、けっして「たまたま」ではないと考える。
というのは、「エイリアン」で女性がヒーロー・ポジションにすえられた1979年は、国連で「女子差別撤廃条約」が、まさに採択された年でもあるからだ。
この採択のいちばんの原動力は米国のウーマンリブ運動であって、国全体のそうした空気が、映画「エイリアン」のあの発想に影響してないはずはないのである。
上の条約の採択から約40年たったときに、アメリカ大統領選で女性候補が最も多くの票をえたと表現するなら、話はよりすっきりするだろう。
萌芽となる出来事がおきて、それが完全に成就するまでには、しばしば、旧世代が完全に入れ替わる時間を要するのだ。
ちなみに、ロメロの映画初作が、「国立フィルム保存法」の下で永久登録されることが決まったのも、上映から31年という長い年月がたった、21世紀直前のことであった。
国で登録が開始されたのがそもそも1989年だけれど、「2001年宇宙の旅」あたりは、わりと直後に登録されている。やはりロメロ初作の場合、時の流れというものを要したのではないか。
40年で社会はがらり変わるが、個々の人の心は必ずしもそうではない。そうした話には、またこの文の最後で帰ることにする。
そちらがいちばん、ホラーの話題にふさわしい実例であるかもしれない。
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