「文化的、歴史的、芸術的」に重要という評価基準において、この作品が「芸術的」を満たしたとは思えない。
ロメロの作品が上のような評価を受けた大きな理由は、黒人をドラマの中心にすえ、彼が白人の集団とたたかう――物語的な意味を抜き去るなら、絵としてずばりそうしたものになっている――という、社会への強烈なメッセージ性であったろう。
当時の社会状況にあって、こういう内容の映画にボランティア出演した白人がたくさんいた(ほとんどが作中で撃たれたりして殺される)というのも、一方で、アメリカの立派なところだと思う。映画の趣旨を、わかった上でのことなのである。
また、あちらのシロウトたち全員の、芸達者ぶりにも感心する。日本だったら、知り合いをかき集めて撮った16ミリ映画で、なかなかこうはいかない。
おじさんおばさんのゾンビ役など、観客席から失笑が起きる(ホラーものではいちばん困る)演技になってしまうだろう。
撃たれる演技で思い出したけど、日本でも関西ならこういう芸達者シロウトを集められるのかもしれない。
しかし、多数がゾンビ役を演じるなか、笑いを取りにいこうとする人をゼロにすることがムツカシイかもしれない。
宇宙空間での継承?
ことしも新作が封切られ、ヒットしていたアメリカ映画に、「エイリアン」シリーズというのがある。ロメロのゾンビ・シリーズの、11年あとにスタートしたシリーズだ。
私はあれ、ロメロのゾンビ映画の精神的な後継作のように感じているのである。
気味のわるい敵の群れと、人間のグループがバトルする点もむろんそうなのだが、それ以上に、定型やぶりのヒーロー設定によってだ。
勇敢なバトル・ストーリーのハリウッド伝統を、別の形でこわし、この映画ではなんと、若い女性がファイターの主役にすえられている。
ここではついに、ひたすら悲鳴をあげ誰かに助けられるという、ハリウッドの伝統的ヒロインは消されてしまった。
私は、女傑が宇宙ゲテモノ(明らかにそういう印象をめざして造形されている)を成敗するさまを見ながら、「彼女はアメリカ人の目で見たとき、ヒロインなのか、ヒーローなのか。それともその両方なのか?」と、ぼんやり思った。
数日後に、「あれはハリウッドの約束の外からやってきた、エイリアン(外国人)だ」という答を思いついて、心のなかで自分にザブトンを1枚あげた。
極東の民から見たら、あの人は実際にエイリアンなのであるし。
この映画が大ヒットした理由は、第一に、エイリアン(地球外からの)やその宇宙船などの、気味わるいがアートにも通じるような独創的な造形にあったろう。
しかし、もう一つ重要な理由は、「若い女優」→「ヒロイン役」という定型をこわす、この斬新なヒーロー設定にあったと思う。
その後、女をメイン・ファイターにすえるという設定は、ハリウッドでしばしば用いられるようになった。
これは一種のコロンブスの卵であり、男の観客から見ても女の観客から見ても、それぞれの意味で魅力のある設定ではないだろうか。
人は変われるのか、入れ替わることができるだけなのか
上記の二つの映画、両方に関係した話なのであるが――。
私は近ごろ、「40年」という長さをよく意識するようになった。
この長さにどんな意味があるかというと、それは例えば、社会人になる人(の多く)が、20歳あたりで就職をし、60歳を過ぎて引退する年月である(いまはどちらの年齢も、後ろへずれて行っているだろうが)。
すなわちこれは、社会を実質的に支配する層が、そっくり入れ替わる年月なのだ。
なぜそうした年月を意識するかといえば、私は、「人間は、なかなか根っこから変われはせず、人間が世代的に入れ替わることができるだけではないか」という疑いを、もっているためなのである。
個人個人に例外はあっても、社会全体としては……。
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