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 飯間氏は、いずれ三省堂国語辞典のなかに、「役人が政治家の考えを忖度する」といった例文を加えることになるかも、と語っている(これはまだ、「推測」の意味を維持した表現だ)。
 しかし、現在の使われかたからすると、もっと根本的に言葉の定義が書き換えられる可能性もあろう。

 広辞苑は来年の初めに、10年ぶりの新版が出る予定というが、「忖度」の定義の修正(悪?)のことが、もしかしたら少し議論になったかもしれない。今後10年くらい、最新版として通用する必要があるわけだから……。

変化の原因

 さて、「忖度」のこうした意味変化は、いったい、なにゆえ起きたのだろうか?

 たとえば先ほどの社説のように、「首相の思いを忖度する」「会長の意向を忖度する」といった文章が、メディア等で書かれる。この時点では、言葉の意味は国語辞典の解説から逸脱していない。

 しかし、この単語は、ふだんの生活ではまれにしか使われない言葉だ。
 少なくとも昨年まで、たとえば高校生に「忖度」という文字を見せたなら、読める子の割合は5%くらいではないか(私も95%側の子に入っただろう。「すんど」「ひじど」の、どちらかを口にしたと思う)。

 何か初見の言葉に出くわしたとき、私たちは辞書でその意味を調べるという面倒なことはまずしない。
 その言葉が入っている文章から判断して、「たぶんこういう意味だろう」という推測をし、それをとりあえず心に刻む。

 どこかで「首相の思いを忖度する」といった文章を読み、また別のどこかで「会長の意向を忖度する」という文章を読んだとすれば、「忖度という言葉は、上役が口に出さない思いを下がくみとって、対処することだな」「へつらい的な場面で使う言葉のようだ」と想像する人は、当然あるにちがいない。

 この時点で誤解が発生したと言えば言えるが、これこそ誰もが子供のころから個々の言葉を覚えていくやり方ではある。
 動物ならぬ人間ならではの、すぐれた推測能力が、高度に発揮されている場面ともいえる。

 要するに、私たちは未知の単語が入った他者の発言・文章にふれると、「あの人はたぶん、こういうことを言いたいのだろう」と相手の心中を推測――忖度――し、推測したその意味で、次には自分がその単語を使うのだ。

 この文のタイトルを、「ソンタクが汚れた原因はソンタク」としたのは、まあそういうわけなのである。


21世紀に入った後の激変

 さて、今回の話は、どちらかというとここからが本題なのだ。前々から書きたいと思っていた一つの話があり、ことし「忖度」に起きたことが、それにちょうどよいのでマクラにしたというのが実際のところである。

 上に書いたように、私たちは未知の言葉に対していちいち辞書を開いたりはせず、よくこんな言葉づかいを目にする/耳にするといったことを心に刻み、それを自分なりに解釈し、次には他者へ使ってみるという具合である。
 まさに、「学ぶは、まねぶ」であって、見聞きした情報を、推測しつつまねる。

 ある言葉を、途中途中で「原点」を確認することなく、各人が推測で受けわたしていくさまは、あの「伝言ゲーム」にも似ている。

 言葉で情報を受けとるというと、むかしはもっぱら「耳から」だったと思うが、現代人は目から情報を得る度合いがひじょうに高い(携帯端末が普及したことで、ますます)。

 しばらく前まで、そうした「文字情報」は、身近な人の手書きの手紙や作文などを別にすれば、単行本にせよ、雑誌にせよ、新聞にせよ、すべてプロのライターが書いたものであった。
 そこでは、書き手が玄人であることに加え、文章が活字になる過程で、校閲者が言葉や文章の正しさに目を光らせている。

 先ほど新聞に対して苦情的なことを書いたが、正確さのために追記するなら、新聞のような「大急ぎ作業」メディアでも、誤りのチェックは基本的によくなされていると思う。「上手の手から水が漏れる」ことが、時たまあるくらいで。

 そのようであるから、いままで私たちは、目から情報を得るとき、情報とともに「正しい言葉づかい」だけを常に心に刻んでいたのである。

 そうした状況では、そして多くの人が活字をよく読む状況にあっては、たとえふだんのおしゃべりでまちがった言葉づかいが発生しても、それが正されるチャンスは多くなる。

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